2009年12月 7日 (月)

第52回グラミー賞ノミネーション

もうじき、第52回グラミー賞が発表されるが、その候補曲が発表された。

しかしながら、今年の候補曲はどうだろう。ざっとみて、ほとんど印象に残らないような楽曲ばかりである。印象というよりも10年先、20年先に、果たして残っているだろうか。

正直言って、今年の洋楽は不作ではないだろうか。もっとも、邦楽とて同じであるが、それはただ単に私が音楽に興味がなくなってきたからか、あるいは、年老いてきたせいだからだろうか。

確かに、ビヨンセもレディー・ガガもテイラー・スウィフトもヒット曲を飛ばした。しかし、楽曲となると「ヘイロー(Halo)」よりも「イフ・アイ・ワー・ア・ボーイ(If  I Were A Boy)」ではないか。レディー・ガガは、マドンナの亜流、テイラー・スウィフトには個性があまり感じられない。

キングス・オブ・レオンに至っては、昨年のブリティッシュ・アワードで最優秀アルバム賞を獲得した、言わば、米国にとって逆輸入のかたちで人気を博した。個人的には、キングス・オブ・レオンのような正統派のロックが躍進することを望んでいるのだが、それとて、今一歩の観が拭えない。

単身赴任生活で、オーディオで音楽を聴くことに飢えている今、余計に最近の音楽はつまらなく感じてしまう。60年代から80年代にかけての洋楽の勢いは、もはや訪れないのだろうか。

そうならないことを、切に願いたい。

■年間最優秀レコード候補

「ヘイロー」(ビヨンセ)

「アイ・ガッタ・フィーリング」(ブラック・アイド・ピーズ)

http://www.youtube.com/watch?v=cMxASjxRk1w

「ユーズ・サムバディ」(キングス・オブ・レオン)

「ポーカー・フェイス」(レディー・ガガ)

http://www.youtube.com/watch?v=ByLtzwccDkY

「ユー・ビロング・ウィズ・ミー」(ティラー・スウィフト)

http://www.youtube.com/watch?v=1MyFREnlvqk

■年間最優秀アルバム候補

「アイ・アム... サーシャ・フィアー」(ビヨンセ)Photo_3

「THE E.N.D. 」(ブラック・アイド・ピーズ)Photo_2

「ザ・フェイム」(レディー・ガガ)Photo

「ビッグ・ウィスキー・アンド・ザ・グーグルックス・キング」(ディヴ・マシューズ・バンド)Photo_4

「フィアレス」(ティラー・スウィフト)

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■年間最優秀楽曲候補
「ポーカー・フェイス」(レディー・ガガ)
「プリティ・ウィングス」(マックスウェル)
「シングル・レディース (プット・ア・リング・オン・イット) 」(ビヨンセ)
「ユーズ・サムバディ」(キングス・オブ・レオン)
「ユー・ビロング・ウィズ・ミー」(テイラー・スウィフト)


■最優秀新人賞候補
ザック・ブラウン・バンド
ケリー・ヒルソン
MGMT
シルバーサン・ピックアップス
ザ・ティン・ティンズ

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2009年11月21日 (土)

ロマン派と象徴派の画家たち 7

バーン=ジョーンズ (エドワード・バーン=ジョーンズ 1833-1898 イギリス)

A不吉な顔(一部)(1886~87年 クワッシュ)

バーン=ジョーンズは、英国バーミンガムに生まれ、オックスフォードのカレッジで後にモダンデザイナーの父と呼ばれるウィリアム・モリスと親交を暖める。

二人はもともと牧師になる予定だったが、中世ゴシック建築や美術に興味を抱いているうちに、芸術家になることを決意する。

大学卒業後、二人はロセッティが指揮する天井画の制作に加わり、ロセッティの影響を強く受け、バーン=ジョーンズは画家となる。一方、モリスはロセッティを代表とするラファエル前派のモデルを勤めていたジェーン・バーデンと結婚することとなるのである。

バーン=ジョーンズの描く絵の女性は、どことなくロセッティの描く女性を彷彿とさせるが、ロセッティの方は男っぽさがあり、バーン=ジョーンズはより女らしく思える。彼が裸婦を描くときの丸みのある曲線、愛らしい目の描き方については、アングルの影響も少なからずあるのではないかと私は思う。

ところで、この『不吉な顔』は、ギリシャ神話の逸話からなる。ギリシャ神話の中でよく知られるゼウスの子でありヘラクレスの父であるペルセウスは、蛇の頭を持ちその顔を直接見たものは石になるというメデューサを退治したあと、エチオペアの王妃カシオペアの前に現れる。カシオペアは、怪獣の餌食にされるため海辺の岩に鎖で繋がれた王妃の娘・アンドロメダを助けたら妻に出来るという約束をペルセウスにする。アンドロメダは、カシオペアが「自分の娘・アンドロメダは、海のニンフ達より美しい」 と自慢したことから、海神・ポセイドンの怒りをかい、海の怪獣の餌食にされていたのである。そこで、ペルセウスは、メデューサの顔を怪獣に向けて怪獣を石にすることによって、アンドロメダを助けるのである。

『不吉な顔』は、ペルセウスが戦利品であるメデューサの顔を井戸の水を鏡にしてアンドロメダに見せようとしている構図である。女の手をとりながら戦利品を丈高に見せようとする男の猛々しさと、恐る恐る見ようとするアンドロメダの女らしさが、「不吉な顔」のメデューサを配して象徴的に描かれている。

絵画史において、ペルセウスとアンドロメダの逸話は数多く描かれているが、その後の二人を描いた絵はあまりないのではないか。この絵は、アンドロメダ救出後のバーン=ジョーンズの想像の産物かもしれない。前述したように、彼の描く絵にはロセッティの影響が色濃く窺われるが、ロセッティにも増して幻想的な作品となっている。

バーン=ジョーンズは、神話的世界に男と女の根源的無意識を封じ込めたのである。

ちなみに、バーン=ジョーンズの『眠り姫』(下)は、つい最近までこのブログのタイトル絵にしていた。

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2009年11月12日 (木)

「つまらない服」と「つまらない一生」

Photo 「つまらない服を着てると、つまらない一生になるわよ」と、つい最近始まったテレビドラマ『リアル・クローズ』の神保美姫(黒木瞳)は、センスのない服装をしている主人公・天野絹恵(香里奈)に助言する。

このセリフ、平凡であるが、心に残る言葉ではないだろうか。実は、以前にも似たようなセリフをテレビドラマで聴いたのである。

それは、30年以上も前にNHKで放送された『江分利満氏の優雅な生活』の中でである。杉浦直樹が息子に語るシーンで、正確には思い出せないが、時計を示しながら、「安っぽいものを身に着けてると、安っぽい人間になる」というようなセリフであった。

その後、直ぐに山口瞳の原作を買って読んでみたが、同じ言葉が描かれていたかについては覚えていない。

そのころ、私は20歳くらいであった。それ以来、その言葉が私の心に根付いているのである。私は、できるだけ安っぽいものは買わずに、お金を貯めて、できるだけいい物を買うようにしている。その言葉のせいではない。それ以前からも同じようにしている。ただ、その言葉が自分の考え方を肯定してくれたと思ったのである。

いい服を着ていれば、自然に姿勢や立ち振る舞いも粗雑にならない。どこかしら、服に似合うような振る舞いを心がけようとするものがある。それは、すべてに通じるとまでは言わないが、そうした感覚は誰にでもあるはずである。

酔っ払ってしまえば別の話であるが、人生の晴れ舞台の場である結婚式でタキシードやウエディング・ドレスを着て、毅然としないものを見たことがない。どこかの社長のように、暴走族の特攻服を着れば、やはり行動はどうしても暴走族風の突っ張り的な振る舞いをしてしまうだろう。

「つまらない服を着てると、つまらない一生になるわよ」という言葉には、真実が隠されているのである。この言葉を聴いた多くの人は、「そうかもしれない」と思ったことだろう。

何も見栄を張れとか贅沢をしろというのではない。いい物を長く使えば、安いものを短い期間で何度も買い換え、あの時あっちの高い方を買っておけばよかったと思うよりも、心に余裕ができるのである。

神保美姫が、「つまらない服を着てると、つまらない一生になるわよ」と始めた言葉、彼女が最終的に吐く言葉は果たして…。

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2009年11月10日 (火)

この日を待っていた! 松井MVP

Cimg3081(ワールドシリーズ第6戦  2回裏の特大ホームランを放つ瞬間)

私はこの日を待っていた。松井がそうであったように。

そして、11月5日、その日が訪れた。ヤンキースの3勝2敗で迎えたワールドシリーズ第6戦、松井の3安打6打点、彼の独壇場であった。私はこのシリーズで松井がMVPを獲得することを予測していた。それは、松井ファンなら誰しもがそうであったかもしれない。

もしもイチロー派と松井派があるとすると、私は断然、松井派である。せこいといったら失礼かもしれないが、イチローのような内野安打で率を稼ぐ打者は好きではないし、たとえメジャーリーグで記録を作っても、「あ~、そう」という感慨しかないし、偉大だとも思っていない。

もともと私は、野球はホームランの醍醐味で魅了されていた。その第一人者は王である。子供のときから王の打撃、とりわけホームランに一喜一憂したものである。そして、その後継者は松井である。

かつてメジャーリーグでホームラン記録を打ち立てたマグワイア、ボンズらは筋肉増強剤使用疑惑が湧き上がり、そのうわさ以降、嘘のようにホームランを打てなくなった。最近ではヤンキースのロドリゲスさえも同類に名を馳せようとしている。

一方、松井は筋肉増強剤にたよるようなやわな存在ではなかった。左手首骨折、その上に両膝の手術、それを乗り越えての今回のMVPである。

おそらく、今後ワールドシリーズでMVPを獲る日本人プレイヤーは、松井以外には出てこないだろう。それほどの偉業を成し遂げたのである。

Cimg3085(MVP受賞シーン)

松井がメジャーリーグに移籍になる前までは、狂人がつくほどの熱狂的巨人ファンだった私が、松井の移籍以来、嘘のように日本のプロ野球を見なくなった。野球シーズン、気になるのは松井の成績だけであった。

松井は今日FA申請したという。彼はDHではなく、外野手としてのプレーを望んでいるという。DHでは選手生命が短くなるからと松井は考えているようである。そうなると、来年以降、松井のヤンキースでの継続契約は難しくなるだろう。しかし、ヤンキースでなくても松井は松井である。どこに所属しようが松井ファンには関係ないのである。

今年MVPを獲った以上に、来年の松井の活躍を期待してやまない。

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2009年10月26日 (月)

A・タルコフスキー 『ノスタルジア』

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『ノスタルジア(NOSTALGHIA)』は前作『ストーカー』を経て、タルコフスキーがソ連から正式に亡命し、イタリアにおいて製作した作品である。冒頭のモノトーンのシーンからすでに重たい郷愁が漂う。その後タルコフスキーが帰ろうにも帰れなかったロシアの地に想いは翔る。

ワンシーン・ワンシーンが計算された構図と詩情と絵画性に溢れる。それにしても、タルコフスキーの作品には『水』が重要な要素を占める。

タルコフスキーは、『水』について最も美しいイメージだと語る。そして、それは日本で思われているようにと・・・。この『水』の概念は、おそらく東洋思想の『老子』が原点となっている。『上善は水の如し』である。

しかし、それだけではないだろう。『水』は鏡に繋がる。人を景色をそこに映し出す。そして、浄化作用。その意味において『ノスタルジア』は水の美しさを描いた作品であるとも言える。

タルコフスキーは、郷愁(ノスタルジア)は死に至る病だと語る。確かに、『郷愁』は人が幸福のときには感じないものだろう。絶望の淵にあるとき、何かにすがりたいときに救いの場を求める。その場とは、人が生れ出でた故郷なのだろう。

それは、『惑星ソラリス』からのテーマでもあった。かつて安部公房は、郷愁はセンチメンタリズムであり人間には害悪だというようなことを語っていた。おそらく、タルコフスキーの語る郷愁と同意義であるにちがいない。そして、タルコフスキー自体、この頃、自分の死を予感していたのかもしれない。

そして、アンドレイの分身としての『ドメニコ』。アンドレイは、最初会ったときからドメニコに興味を示す。そこには芸術家としての共感以外に、内面の苦悩、つまり孤独を共有しているという繋がりがある。街角をさすらうアンドレイが、ふとドアを開けようとしたとき、窓ガラスに映ったのは自分の顔ではなくドメニコの顔だった。。あわててドアを閉めるアンドレイ。

そこでアンドレイは、ドメニコが自分の分身だと気づくのである。いや、最初からドメニコをそうして見ていたのである。このときの窓ガラスは、自分の内面を映し出す『鏡』の役割を担っている。ドメニコが呟く、『1滴プラス1滴は2滴ではなく、大きな1滴となる』という観念は、ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公が呟く、

「・・・それにしても、ニニ(ににん)が四というのは鼻持ちならない代物である。ニニが四などというものは、ぼくにいわせれば破廉恥以外の何物でもない。ニニが四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行手に立ちふさがって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。ニニが四がすばらしいものだということは、ぼくに異論はない。しかし讃めるついでに言っておけば、ニニが五だって、ときには、なかなか愛すべきものではなかろうか。」

と同じ観念でもあろう。世の中、すべて数字(公式)や科学で表すことはできないのである。特に芸術家の精神はそうに違いない。

『ノスタルジア』において『水』の次に大事な要素が『火』である。すべてを焼き尽くす火。過去、そして故郷さえも焼き尽くしてしまう火。それは『鏡』でも使われたが、『ノスタルジア』では、破壊としての火というよりも世界を救うための火として使われている。

ドメニコが世界の救済を呼びかけ焼身自殺を図る火、温泉広場の端から端まで蝋燭の炎を消さずに渡れたならば世界は救われるという、蝋燭の火。この作品での『火』は贖罪としてのイメージなのである。

そうしたイメージの連鎖で『ノスタルジア』は構成されている。言葉では語れない、視覚で訴えるイメージ。タルコフスキーは映像本来のもつ特性を最大限に活用し、彼の天性の映像感覚で詩情豊かに創造したのが本作品である。

この作品では、アラン・レネ監督と画家フリードリッヒの影響を見逃すわけにはいかないだろう。冒頭故郷の風景での人の配置と構図、ドメニコが演説するのを階段で眺める人々の配置と構図は、明らかにアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』の影響が窺われ、アンドレイ、エウジェニアが宿舎の窓から外を眺める構図は画家フリードリッヒの『窓辺の女性』を、そしてエンディングは、『エルデナ修道院跡』そのものである。(夢の美術館、特集ダリ参照)

また、『水』の結晶体である『雪』が降りそそぐエンディングは、雪国ロシアにたいする郷愁の究極的なイメージにちがいない。

ちなみに、本作の脚本家トニーノ・グェツラは、アントニオーニの『情事』、『太陽はひとりぼっち』、デ・シーカの『ひまわり』、フェリーニの『アマルコルド』、タビアーニ兄弟の『サン・ロレンツォ』の脚本も担当している。

私は、この作品が早くデジタル・リマスターされ、ブルーレイ化されるのを望んでやまない。

< アクスコ倶楽部・『魂の映像詩人タルコフスキー』より http://www.fiberbit.net/user/m31fb/tarkovsky_nostalghia.htm >

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2009年10月20日 (火)

加藤和彦、逝去する。

Photo10月16日、加藤和彦がジョン・レノンも宿泊したという軽井沢のホテルで自殺した。

加藤和彦は、北山修、はしだのりひことの3人組・ザ・フォーク・クルセダーズの1人であり、1967年に解散するつもりで発表した「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたことにより、その名が知られるようになったことは、今更書くことでもないことだろうが、以後40数年にわたって音楽界の先端を走ってきた彼が逝去したことは残念なことである。

と知ったふりをした音楽評論家ならば書くであろう。

加藤和彦が最先端を走ってきたという言葉は適切ではないのかもしれない。彼はただ単に新しい音楽を模索してきたのだ。グループ名のフォーク・クルセダーズ(正確にはクルセイダーズと読む)はジャズ・クルセイダーズからもじったものであり、加藤和彦の愛称である“トノバン”も英国のシンガー・ゾングライターの“ドノヴァン”をもじったものであることを考えても、決して、彼が音楽の最先端を行っていたものでなく、ただ単に最先端を走ろうと模索していたに過ぎないことを如実に語っているのではないか。

それは、自殺というスキャンダラスな死を選んだことでも証明できる。私は自殺を否定するつもりはない。彼が母の介護に疲れていたこと。うつ病が悪化していたこと。曲が書けなくなったこと。様々な要素が絡んで、その死を選んだろうことは想像に難くない。

それが事実であれば、私は彼が「自殺」を自由意志としてではなく、逃避の手段として選んだこととして、それを肯定するつもりはない。彼は音楽家として最先端を行けなかった。それが「自殺」という行為に現れているような気がするのである。

私としては、「帰って来たヨッパライ」には全く興味はなかった。そして、その翌年にフォーク・クルセダーズが発表した「悲しくてやりきれない」は、私の琴線に触れることになるのだが、それ以上に彼らがカヴァーした「イムジン河」の一途な想いと「戦争は知らない」の清らかさというものに感銘を受けたものだ。

当時、高校生の私には「戦争」というものに何も感慨はなかった。「イムジン河」が朝鮮半島の南北統一を願った歌とか、「戦争は知らない」が反戦歌とか、そんなことはどうでもよかった。そのメロディと詩のの美しさがすべてだった。それは今でも同じである。

大体、戦争を描いたというもの自体に興味がない。もっとも、私には「戦争」そのものに全く興味がないのである。「戦争を忘れないために」、「戦争を忘れてはいけない」というキャッチフレーズ自体が好きではない。世の平和のためには、戦争という言葉を早く忘れ、戦争という言葉自体を死語にさせなければならないのだと私は思う。そこで初めて戦争はなくなるのではないか。

現代では、戦争を否定することは簡単である。いくらでも、どんな戦争映画でも描ける。いまさら戦争はこんなにも悲惨だった、戦争を起こした犯人の誰だというような代物は、今だからこそ描けるのであり、もし貴方が戦争当時の映画監督やシンガーソングライターだったとしたら、そうした反戦的なものを描けましたか? それだけの勇気がありますか? と尋ねてみたくなる。

『イムジン河』 (1968年 作詞・松山猛 作曲・高宗漢)

イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥自由に むらがり飛びかうよ
我が祖国 南の地
おもいははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る

北の大地から 南の空へ
飛びゆく鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を二つに わけてしまったの
誰が祖国を わけてしまったの

イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ おもいを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも 忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る

「誰が祖国を二つに わけてしまったの」と歌いながらも、いったい日本人の誰が朝鮮半島の統一や分裂している現実の哀れを込め得ることができるだろうか。

『戦争は知らない』 (1968年 作詞・寺山修司 作曲・加藤ヒロシ)

野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない
だけども私に 父はいない
父を想えば ああ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む

戦で死んだ 悲しい父さん
私はあなたの 娘です
二十年後の この故郷で 
明日お嫁に お嫁に行くの 

見ていてください 遥かな父さん
いわし雲飛ぶ 空の下
戦知らずに 二十歳になって
嫁いで母に 母になるの

野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの

この歌も1955年にピート・シガーによって作られ『花はどこへ行った』に触発されて作られたものであることは容易に想像がつくのだが、『花はどこへ行った』はもともと反戦歌として歌われたのではなかったことを考えれば、『戦争は知らない』も反戦歌ではないのである。「反戦歌」とはマスコミや烏合の衆たちが勝手に名づけたものである。

話は逸れたが、私は加藤和彦が好きである。『悲しくてやりきれない』、『あの素晴らしい愛をもう一度』などの美しい歌を書いた加藤和彦は、優し過ぎるくらいに優しい人だったのだろう。

そうした優しい人間を自殺に追い込む環境こそが何よりも哀しい。 

『花のかおりに』

『何のために』

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2009年10月17日 (土)

新型フーガ、いいと思う。

Fuga新型フーガが、この秋発売されるという。私としては、このスタイリングが気に入っている。

私の車選びのポイントは、性能や燃費、居住性といったものではなく、1に2にもスタイリングである。それだけといってもいい。ほとんど1人か2人しか乗らないのに、レスポンスや速さなどどうでもいいのである。

新型フーガには、3500ccと2500ccが設定されているようだが、そんなわけで、私は2500ccで十分だと思っている。

ボディー・サイズも、全長4945×全幅1845×全高1500mmと、ちょうど家のマンションの機械式駐車場に納まるサイズがいい。

最近の車はやたらと全幅が広くなり、日本の狭い駐車場には向かないということが、メーカーはわかっていないらしい。

そういえば、BMW3シリーズも本国では全幅が1800mmを超えるのに、日本向けに全幅を1800mmに抑えたという話もある。

今の愛車、メルセデスベンツCLKは、購入してから今年の11月で11年が過ぎる。走行距離は76000kmで、平均的には少ない方だろうか。今年か来年あたりに買い換えようと思っていたところだが、なかなか気に入った車が出てこなかった。レクサスやトヨタはスタイリングに個性がなくて、食指が動かない。

そんなときに、新型フーガがこのスタイリングで発売されるという情報を知り、これなら買い換えてもいいかなと思っている。

ただ一つ最近のヘッドライトの傾向として変形の流し目的な形が多いことが、どうにも気に入らない。どこのメーカーも右にならえというのは、どうしたものか。私としては、CLKのように丸目のヘッドライトが好きなのだが、このクラスでは皆無になっている。

この新型フーガのスタイリングに丸目であれば言うことはないのだが…。ひょっとしたら、11月の車検あたりで買い換えているかもしれない。

Fuga2

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2009年10月13日 (火)

Takuro Premium 1971-1975/ 吉田拓郎

Cimg3032a_210月7日にBlu-spec CDで発売された吉田拓郎 の『Takuro Premium 1971-1975』を購入した。

このBOXセットは拓郎がソニーミュージック時代に残した名盤、『元気です』、『伽草子』、『Live ’73』、『今はまだ人生を語らず』の4枚のオリジナル・アルバムにシングル集1枚が収められている。

確かに、拓郎ファンにとってはすべて持っているアルバムかもしれない。しかし、このアルバムはBlu-spec CDとして高音質化されている。

今後、これ以上の高音質CDは当分でないだろう。だとしたら、いくら違うタイトルのアルバムと曲目がダブっていたとしても、拓郎ファンなら買うしかないではないか。

しかし、残念ながら、『今はまだ人生を語らず』の1曲目に当然収められているであろう「ペニーレインでバーボン」は「つんぼ桟敷」という差別用語が含まれているというつまらない理由からかCUTされている。

そんなことが、まかり通っているとは、つい最近まで知らなかったことだ。優れた映画作品は、台詞の中に差別用語が含まれていても、オリジナルのままで放映されているではないか。また、60年代から70年代にかけて放送禁止歌として放送禁止、発売禁止となった曲も、最近になってCD化され、復活しはじめている。そんな時期に、「ペニーレインでバーボン」がCUTされたままとは、ソニーミュージックのだらしなさが窺えなくもない。

それはそれとして、ともあれ高音質化されて、1曲1曲にこれまで感じなかった懐かしさがよみがえる。拓郎の曲がギターで弾けるように耳をそばだてコピーしていたころ、才能もなくシンガー・ソングライターになりたいなどと思っていたころのことなどなど…。

もっとも当時は、レコードでありステレオ・セットも今ほど高性能でないから、1曲1曲に新しささえも感じさせてくれるのは不思議なことでもあり、嬉しくもある。

そして、幸せな気分に浸れる自分だけの世界が、そこに現出するのである。

『Takuro Premium 1971-1975』

『元気です』
1. 春だったね 2. せんこう花火 3. 加川良の手紙 4. 親切 5. 夏休み 6. 馬 7. たどり着いたらいつも雨降り 8. 高円寺 9. こっちを向いてくれ 10. まにあうかもしれない 11. リンゴ 12. また会おう 13. 旅の宿 (アルバム・バージョン) 14. 祭りのあと 15. ガラスの言葉

『伽草子』
1. からっ風のブルース 2. 伽草子 3. 蒼い夏 4. 風邪 5. 長い雨の後に 6. 春の風が吹いていたら 7. 暑中見舞い 8. ビートルズが教えてくれた 9. 制服 10. 話してはいけない 11. 夕立ち 12. 新しい朝

『Live ’73』
1. 春だったね ’73 2. マークII ’73 3. 君去りし後 4. 君が好き 5. 都万の秋 6. むなしさだけがあった 7. 落陽 8. 雨が空から降れば 9. こうき心 ’73 10. 野の仏 11. 晩餐 12. ひらひら 13. 望みを捨てろ

『今はまだ人生を語らず』
1. 人生を語らず 2. 世捨人唄 3. おはよう 4. シンシア 5. 三軒目の店ごと 6. 襟裳岬 7. 知識 8. 暮らし 9. 戻ってきた恋人 10. 僕の唄はサヨナラだけ 11. 贈り物

『シングル集』
1. 今日までそして明日から 2. ともだち (LIVE) 3. 結婚しようよ 4. ある雨の日の情景 5. 旅の宿 (シングル・ヴァージョン) 6. おやじの唄 7. おきざりにした悲しみは 8. 花酔曲 9. 伽草子 10. こんなに抱きしめても 11. 金曜日の朝 12. 子供に 13. シンシア 14. 竜飛崎

それから、このブログでもよく検索されている拓郎のあの幻の名曲 『君うるわしのかんばせ』が、ラジオで放送されたデモ・テープを録音したもののようで音質は悪いのだが、YOU-TUBEにアップロードされていたので、ここに記録しておく。《折角の名曲、アップロードした方の映像センスがないのが残念だが…》

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2009年10月 1日 (木)

また、また、また…Blu-spec CDなど

最近、ビートルズのCDがデジタル・リマスターされ話題を呼んでいるが、デジタル・リマスターで本当に音質が向上したのか、はなはだ疑問である。確かに、過去のCDよりは向上しているのだろうが、よほどの高級オーディオで聴くならばまだしも、普及クラスのCDプレイヤーで聴いて、その音質の違いがわかるだろうか。

私はBlu-spec CDやSHM-CD、HQCDのように高音質CDにしないとその違いはわからないと思うのである。

1ヶ月ほど前に購入した以下の4枚のCDは、カーペンターズのSHM-CDを除いて、他の3枚はBlu-spec CDである。

TOTO/ Essential (Ltd)

Toto_21.ホールド・ザ・ライン  2.ロザーナ  3.アフリカ  4.99 5.メイク・ビリーヴ  6.愛する君に  7.ジョージー・ポージー  8.ホールド・ユー・バック  9.アイル・ビー・オーヴァー・ユー  10.ウィズアウト・ユア・ラヴ  11.パメラ  12.ターニング・ポイント  13.マインドフィールズ  14.オン・ザ・ラン(ライヴ)

いわゆるベスト盤である。私はベスト盤を好む。特にこうして高音質CDで発売されるものはベスト盤がよい。なぜなら同じCDを何枚も買うのは、お金がもったいない。よほど好きな曲が、アルバムだけにしか入っていなければ別な話であるが。特に1、2、3、4、11は大ヒットした曲や名曲だけに素晴らしい。

Daryl Hall / John Oates / Very Best Of (Ltd)

Ho 1.プライベート・アイズ  2.キッス・オン・マイ・リスト  3.アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット  4.マンイーター  5.ウェイト・フォー・ミー  6.サラ・スマイル  7.シーズ・ゴーン  8.リッチ・ガール  9.ふられた気持  10.ディド・イット・イン・ア・ミニット  11.ワン・オン・ワン  12.セイ・イット・イズント・ソー  13.アダルト・エデュケイション  14.アウト・オブ・タッチ  15.メソッド・オブ・モダン・ラヴ  16.エヴリシング・ユア・ハート・デサイアーズ  17.エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ

80年代に大ブレイクしたホール&オーツのベスト盤であり、ほとんどが大ヒットした曲もしくは名曲である。ただし、9の「ふられた気持ち」はライチャス・ブラザース(1964年)のカヴァー曲であり、逆に17の「エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」は、英国のポール・ヤングが1985年にカヴァーし大ヒットした名曲である。

吉田拓郎 / Golden Best ひきがたり(Ltd)

Photo1.高円寺 2.ガラスの言葉 3.青春の詩 4.花嫁になる君に 5.馬 6.制服 7.ある雨の日の情景 8.蒼い夏 9.おやじの唄 10.リンゴ 11.旅の宿 (アルバム・バージョン) 12.今日までそして明日から 13.長い雨の後に 14.人間なんて 15.祭りのあと 16.BLOWIN’ IN THE WIND 17.大いなる 18.ロンリー・ストリート・キャフェ 19.マークII (LIVE録音) 20.されど私の人生 (LIVE録音) 21.イメージの詩 (LIVE録音) 22.ともだち (LIVE録音) 23.落陽 (Acoustic Version) (LIVE録音)

このアルバムは、4ヶ月前に通常CDで購入したばかりである。それでもBlu-spec CDで聴きたくて今回購入した。やはり、好きな曲は高音質で聴きたい。10月7日にBlu-spec CDで発売される『Takuro Premium 1971-1975 (Ltd)(Box)』も既に注文した。拓郎の曲は私にとってバイブル以上の存在である。

先日、矢沢栄吉が60歳代の唯一のロッカーだと自分を称していたが、私には矢沢栄吉は歌謡曲のようにしか聴こえない。曲に込められたメッセージ性からみても拓郎こそがロッカーである。

Carpenters / Lovelines: 愛の軌跡(Ltd)

Car 1.ラヴラインズ 2.愛のゆくえ  3.アンインヴァイテッド・ゲスト  4.イフ・ウィ・トライ  5.ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ  6.キス・ミー・ザ・ウェイ  7.愛の想い出  8.あなたがすべて  9.ホノルル・シティ・ライツ  10.スロー・ダンス  11.イフ・アイ・ハド・ユー  12.リトル・ガール・ブルー

このアルバムは、9の「ホノルル・シティ・ライツ」 だけのために購入した。私がカーペンターズの曲の中で唯一の好きな曲であり、カレンの歌声が素晴らしいの一言に尽きる。

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2009年9月 9日 (水)

ロマン派と象徴派の画家たち 6

モロー (ギュスターブ・モロー 1826-1898 フランス)

Moreauオイディップスとスフィンクス(1864年 油彩)

1864年、モローの『オイディプスとスフィンクス』は、パリのサロンで好評を博し、一躍有名となった。

そして今、『オルトロスの犬』という「神の手」と「悪魔の手」をめぐるドラマでもこの絵が使われている。

モローは、「ロマン派と象徴派の画家たち 1」にも書いたが、イギリスを中心としたラファエル前派から派生した象徴主義絵画の代表格である。

そもそも象徴とは、ある一つのものを提示することによって、もう一つのものを暗示することである。

つまりは、死を描くことによって生を象徴する。その逆もまた同じである。

イマージュがイマージュを生む。幻視が幻視を呼ぶ。イマージュと幻視の重層化こそが象徴なのである。

象徴派絵画に向けた視線は、その絵画から生まれる異質な二つ以上のものの領域に溶け込み、かつ変容しながら、ある一つのものに統合させつつ、新しいイマージュの世界を現出させていくのである。

モローは宗教や神話を素材にその幻視の世界を描いた。そこにイマージュされるのは、「愛」であり、「性」であり、「哀しみ」であり、「悦び」であり、そして、「生」と「死」、「現実」と「夢」、「闇」と「光」、あるいはその複合体などなど、観る者によって様々に姿を変えるのである。

この絵を描いた3年後、モローの「プロメテウス」はサロンで酷評され、その後9年間、彼は沈黙する。しかし、「サロメ」の連作によって、再びよみがえるのである。

象徴派の画家たちが描く絵には、神秘的な美と退廃的な美が漂う。そして、私がモローの描く絵に惹かれるのは、より一層の神秘と退廃をそこに嗅ぎとれるからに他ならない。

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