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2006年2月18日 (土)

アイ・ロボット~そのラスト・シーン

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『アイ・ロボット』(2004・米)、ウィル・スミス主演のこの作品は、アシモフの『われはロボット』をモチーフとしているが、アシモフの小説は未読である。

(STORY)

西暦2035年のシカゴでは、ロボットは既に人間のサポート役として日常生活に溶け込んでいる。そんな中、U.S.ロボテックス社(U.S.R.)は新たに開発した次世代家庭用ロボットNS-5型を出荷しようとていた。しかし、その直前、ロボット工学の第一人者であるラニング博士が U.S.R.本社ビルで殺害される。容疑者は人間に近い感情を持つNS-5型ロボットのサニー。ロボット3原則により、絶対に人間に危害を加えないはずのロボット。はたして殺人犯になり得るのだろうか?ロボット嫌いのスプーナー刑事(ウィル・スミス)とロボット心理学者のカルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)は、その謎を追及するうちに、やがて、驚愕の事実を知ることになる・・・。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)から

スプーナー刑事は、橋の上の交通事故から川に転落し、救出ロボットが死ぬ確率を計算し相手のトラックに乗っていた少女を助けないで自分を助けたことで、ロボット嫌いになるのだが、彼自身この転落事故で左腕がロボット化されていた。その自己矛盾的な嫌悪感が彼をロボット嫌いにしている。つまり、ロボットを嫌いだという言葉は、自分自身に向けられた言葉でもあった。この作品では、その点を追求していないことが、ただのSFに終わらせてしまっている要素でもある。

このように映画自体は、既にありふれているテーマをとり上げて平凡であったが、ラストシーンの絵は秀逸だった。

この作品で重要な鍵はロボット3原則である。

1 ロボットは、人間に危害を加えてはならない。
2 ロボットは、人間から与えられた命令に服従しなければならない。
3 ロボットは、前掲第一条及び第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。

この3原則を頭脳に封じ込められているロボットは、この原則に従って行動するのであるから本来は安全なのであるが、彼らの行動を律するところの仮想双方向行動知能・ヴィキ(VIKI)という監視ロボットが、戦争や殺戮を繰り返す人間こそが「危険分子」であると考え、ロボットの行動を制御し革命を起こそうとする。それを知ったラニング博士は、自分の死を予見し、スプナー刑事の手助けになるよう3原則を組み込んでいないロボット・サニーを作りあげたのである。

スプナー刑事とともにロボット革命を鎮圧する立役者となった丘の上に立つサニー。そこからズーム・アウトしながら、人間文明の終焉を象徴するかのような崩壊した廃橋とサニーを見上げるロボットの群れが映し出される。まさに、キリストを認めその教えを乞いに集まってきた民衆のイメージをダブらせる新しいメシア誕生の構図である。

人間社会を救った救世主・サニーは、引き続くロボット革命においては、人間ではなくロボットの救世主となることを暗示しているかのようであった。

甘辛評価『★☆』

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(画像上はラストシーンのラスト、画像下はラストシーンの中盤、サニーを見上げるロボットたち~TV画面からDショット)

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コメント

イリさん、

「進化する人工頭脳を持った人間らしいロボットはその最初の設定の余りの人間離れした理想の純化によって、苦悶の末、正義の名の下に人間自体の存在を悪と捉えるのではないだろうか。」

というのは、まさにこの映画で描かれているテーマなんですよ。

それがロボット革命なのです。進化していない旧式のロボットは、人間を救おうと新式のロボットと戦うのです。

投稿: ジャン・ポール@ひろ | 2006年2月26日 (日) 午後 05時55分

長いのでココにしました。
映画からは逸脱してますが…
人間らしいって考えれば考えるほど訳が分からなくなってきます。
進化の過程を全部辿ると共にそれらを脳の奥深く内包したまま赤ん坊で生まれ環境に少なからぬ影響を受け形成された人格も不動ではなく、その後も死ぬまで一瞬一瞬の喜怒哀楽の感情は今までの膨大なデータベースに組み込まれる。その結果の末の行動は、強固なパターン化または地道な努力による自己変革っと、まったく逆の可能性を有している。
人間は優性種の保存のための弱肉強食的聖なる闘争本能肯定の時代に別れを告げ、現代では共存共栄の旗を高々と掲げだしたように見えるかもしれないがそれは表面上の建前のように私には思える。そして未来もまた悲観的見地だが、それが増長するようにしか思えない。したがって上っ面だけの人としての理想像が固定画一的にロボットに植え付けられるとしたら…
未来のロボットの人間らしさとは、人が人として求める理想(非現実的な)の人間像なのかもしれない。進化する人工頭脳を持った人間らしいロボットはその最初の設定の余りの人間離れした理想の純化によって、苦悶の末、正義の名の下に人間自体の存在を悪と捉えるのではないだろうか。(こんな映画があったようななかったような )

(でも、、、ロボット対人間のその前に、ロボットは傭兵化され…ロボットの大手製造メーカーは熾烈な競争を繰り返し大国に売り込み…)

さてそこで理想とは正義とは…となると、これは時代とそのスタンスで違ってしまい絶対的なものではないはずだ。もしかしたらワインのように何年製のロボットは気立てがいいとか、何年は殺伐とし過ぎる、何年はアッサリ系でその存在感がいいとか、、、時代を反映させるのだろう。

ともあれ、未来のロボットに進化する人工頭脳を与えるのは考えものだ。(笑)

投稿: イリ婆 | 2006年2月26日 (日) 午前 05時06分

最近、本田のロボット・ASIMOが早く歩けるように進化しましたが、『アイ・ロボット』の世界が、そう遠くの出来事ではないように思います。映画では2035年の出来事、あと30年経てば、ロボットは人間と共存していると私は思いますが、人間とロボットの葛藤は生まれているのでしょうか。考えれば夜も眠れません(笑)

投稿: R2-D2 | 2006年2月26日 (日) 午前 01時05分

なるほど、そう見ましたか。ラストシーンはキリストをダブらせているのですか。それは人間にとっては悲劇の構図なのですね。
でも、スプーナー刑事のロボット嫌いが自己嫌悪に根ざしていたとは、そこまで見抜く人は少ないでしょうね。
さすが、ひろ様は凄いです。

投稿: HAL2006 | 2006年2月19日 (日) 午後 01時12分

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