金庸の世界 ・ 天龍八部
『天龍八部(てんりゅうはちぶ)』(全8巻 徳間書店)を読む。
この物語は、『射鵰英雄伝(しゃちょうえいゆうでん)』の時代を遡ること約100年前の紀元1100年前後、北宋後期を時代背景とし、中華王朝である北宋は、北に遼国、西夏国、西に吐番国、南に大理国といわゆる他民族に囲まれ、侵略の脅威にさらされていた時代でもある。
『天龍八部』のタイトルは仏教経典からとられ、天龍八部とは仏が菩薩らに説法するときに必ずその場にいる顔かたちが人に似て人にあらざる者で、八種の神々と怪物からなり、その頭が天神と龍神であることから「天龍八部」と名づけられた。その中には、よく知られている「夜叉」、「阿修羅」の名がみられる。
その『天龍八部』をタイトルに冠しただけに、物語は大理国を中心に据え北宋、遼、西夏、吐番に及び、壮大な物語となっているが、タイトルと内容は結びつかないように思える。
あまりに壮大なこの物語のあらすじを書くのは容易ではないので省くことにするが、この物語の主人公はいったい誰なのであろうという疑問が読後に残るであろうし、多くの評論・感想にも4人のヒーローの名が連ねられているが、金庸が冒頭の解題に、「この小説は天龍八部を題名として、北宋時代の雲南大理国の物語を書いたものである」と述べているように、主人公は第1巻から登場する大理国の王子である段誉(だんよ)であろう。
段誉は、仏教や儒学に傾倒し、正義感は強いのだが、武術には興味のないいわゆる文学青年だから、これまでの金庸の物語の主人公としては物足りない、あるいは異色と言ってもいいだろうが、ふとしたことから彼は、逍遥派の絶技である「北冥神功」、「凌波微歩」、天下無敵とも言える家伝の「六脈神剣」まで修得してしまうのである。
段誉は誰にも負けないほど強くなるのであるが、武芸の基本と内功がないので、その絶技の使い方を知らない、思い通りに操れないから、弱いのである。ある時は「強い」けど「弱い」、また、ある時は「弱い」けど「強い」といったアンチヒーロー的側面がある。
そして、段誉を中心として、彼と義兄弟の契りを結ぶ、丐幇(かいほう)の幇主・喬峯(きょうほう)、彼は後に遼国の南院大王となる。そしてもう一人、少林寺の僧で、段誉と同じく、後に偶然にも逍遥派の秘伝を取得し掌門に指名されてしまう虚竹(こちく)がこの物語のヒーローとして活躍する。
登場人物の中で精神的にも体力的にも最も強いのは喬峯であろう。彼は、『射鵰英雄伝』にも登場する丐幇(いわゆる乞食の結社)の幇主で、彼の得意技である「降龍十八掌(こうりゅうじゅうはっしょう)」は幇主のみが身につけることのできる奥義で、『射鵰英雄伝』のヒーロー・郭靖(かくせい)にも後々引き継がれることとなる。
しかし、喬峯は悲運のヒーローであり、その出生の秘密が丐幇の幇主を狙う者らに悪用され、その地位を追われ、漢人ではなく契丹人として名を蕭峯(しょうほう)とあらため、後に契丹人の国である遼国の南院大王となるが、その正義感と義侠心から最後には自ら死を遂げる。
そして、これら3人のヒーローとは別に、もう一人のヒーローとされている慕容復(ぼようふく)が登場するが、私は慕容復をヒーローとは認めない。なぜなら、彼にあるのは名誉欲のみであり、正義感と義侠心を持ち合わせていないものがヒーローたりえることはないのである。
武林での慕容復は、「北の喬峯、南の慕容」と称され、「彼の道をもって彼を制す」…つまり相手の得意技で相手を倒す、どんな武芸にも精通して秀でているという意・・・という武芸で恐れられているにもかかわらず弱すぎるし、燕国復興・・・慕容復は紀元4世紀ころに建てられた燕国の始祖の末裔である・・・のためならどんな悪行もいとわないという思考の持ち主は、とてもヒーローの名を付すことはできない。
この物語は前述したように壮大であり、ヒーローにまつわるそれぞれのエピソードや謎解き的な側面をはらんでいることは面白いし、時に『易経』、『論語』、『詩経』、『孫子』の言葉が散りばめられて文学的な側面を持つ反面、致命的な破綻がある。
それは、段誉の父であり大理国の鎮南王・段正淳(だんせいじゅん)の存在である。この物語の悲運の因果関係はことごとく、段正淳の女好きによって発生している。段誉が心を寄せはじめる女性のすべてが段正淳の血をひくものであり、喬峯が唯一愛した女性・阿朱(あしゅ)、その妹・阿紫(あし)でさえもがそうなのである。
そして最後に、虚竹、段誉にまで出生の秘密があったのだが、これまた驚愕せざるを得ないほどに稚拙な内容となっていることである。
単行本の帯には、『金庸文学の最高峰!』とうたってはいるものの、私には人間関係を極端に狭めたことで、壮大な失敗作に終わってしまったと思えて仕方がないのである。
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