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2008年7月30日 (水)

アンドレイ・タルコフスキー 『鏡』

(ЗЕРКАЛО)

51rzn9r0g8l__ss500_aBS11、毎週土曜日の午後8時からの枠で、「特選映画劇場」が放送されている。毎月の第1週を除いて、過去に岩波ホールで上映された作品がここで観られる。

先週放映されたのは、私が最も敬愛するアンドレイ・タルコフスキー監督の『鏡』であった。ハイヴィジョン放送枠なので、ハイヴィジョン画質で観られるのかと期待もあったのだが、市販のDVD画質と同等であった。

先々週に放送された『惑星ソラリス』は、DVD画質よりも落ちていたので、一縷の望みでしかなかったのだが、現在、タルコフスキーの作品をハイヴィジョン画質で観られるソフトはないようだ。非常に残念である。まさに映像詩人の名がふさわしいタルコフスキーの作品であるからこそ、ハイヴィジョン画質で観たいものである。

以下は、私のHPで特集を組んでいる「魂の映像詩人~タルコフスキー」からの引用である。

「僕のみる夢は、いつも同じだ。僕が40数年前に生れた祖父の家、それが必ず再現される。懐かしい場所だ。そして白いテーブル・クロスの食卓がある。家に入ろうとして入れない・・・、そんな夢を何度か見た。薄汚れた丸太の壁やよく閉まらない扉などを見て、夢だなと思うことがある。そういう時には妙に物悲しく、目覚めたくないと思ったりする。時に何事か起きて、あの家も、周囲の林も夢に見なくなる。夢に現れないと、僕は淋しくなる。夢を待ち焦がれるようになる。夢の中で僕は子供にかえり、幸せを感じるのだ。まだ若いからだろうか?」

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『鏡』は、タルコフスキーの作品のなかで最も難解な作品かもしれない。なぜなら、この作品に貫かれているのは監督の内省的な自伝的要素の強い作品になっているからだ。自分の内面を見つめることさえ難しいのに、人の内面に入るのは困難なことである。物語は父と別れた母への思いと、同じように妻と子供たちと別れてしまった『私』の回想と夢で綴られる。

母が印刷工場で誤植かもしれないと大騒ぎした日に、同僚のエリザヴェータから身勝手だと責められる。そして、主人公も妻から「あなたは自信過剰よ。自分が存在するだけで、家族は幸せになると思っている」と母に似たような非難をされる。自己の存在があっての世界。自己の存在があっての他者。そうした人と人の繋がりの感情の襞が、この作品では鏡を通して語られる。

作品の冒頭近く、風に揺らぐ草原の中を通りすがりの医者が母に語りかける。
「・・・ごらんなさい。自然も素晴らしい。草も木も感じたり、認識したり、理解するのです。・・・われわれは走り回り、くだらんおしゃべりをする。自分の中にある自然を信じないからですよ世俗のことばかり忙しくて・・・」と。

内なる自然、それは『神』と同義語ではなかろうか。人間としての良心。善悪や恥に対する認識。『惑星ソラリス』でもそれらは同じように語られる。そして、スナウトに「人間に必要なのは鏡だ」と語らせている。自己を見つめるための『鏡』、自己の内面を時間と空間を飛び越えて映し出す『鏡
』。鏡に映った自己は虚像ではあっても、その内面の多くを物語ってくれる。そして、それは実像なのである。

スターリン政権下、誤植は命とりだったのである。そのため奔走した母
。それを攻める同僚。観ているものには理不尽さを感じないではいられない。それは、時代のゆがみの現れ、タルコフスキーのソ連政権に対する不信感の現われだったにちがいない。

ともあれ、この作品は言葉で表し難い。それは冒頭述べたとおりである。しかし、タルコフスキー特有の映像。この映像を見ているだけで至福のひと時を感じてしまう。また、感情の奥襞を言葉のやり取りでさらけ出していく手法はベルイマンを、夢のシーン、特に母がベッドから浮き上がるシーンや家の壁が崩れ落ちるシーンにはブニュエルの影響が認められる。

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そして、作品の随所に現れる『水』と『火』のイメージは、次作 『ストーカー』を経て『ノスタルジア』で頂点に達する。

≪父の詩≫
「私は予感を信じない 前兆を認めない 中傷も毒も恐れない この世に死は存在しないのだ すべては不死だ すべては不滅で17歳でも70歳でも死を恐れる必要はない ただ現実と光あるのみ この世に闇もなく、死もない 我々はみな海辺に出る 不滅の海の広がり 我々は力をあわせて綱を引く 家というものも永遠だ 私は好きなときに呼び戻し その時代に生き 家を建てる・・・それゆえに今 我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる もし私が手を挙げれば 未来もここに現れる 光も永久に残るだろう 過ぎ去った日々を私は肩に積み重ねて 深い時の森を抜けてきた 私は自らこの世紀を選ぶ・・・」

〈 拙著*アクスコ倶楽部「魂の映像詩人 タルコフスキー」より 〉

鏡《ストーリー》

私の夢に現われる母・マリア。それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。うっそうと茂る立木に囲まれた家の前で、母・マリア(マルガリータ・テレホワ)はいつものようにもの思いに耽つていた。一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者が声をかけるが、彼女は相手にしない。

母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。息子≪私の少年時代≫・イグナートが家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。

私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。私は母に、母の夢をみていたことを知らせる。


両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。

妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。


そして、哀れだった母のこと。大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行き、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。

母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる…

そして、夕暮時、母が遠くで見守るなか、広い草原を子供たちが年老いた母につれられて歩いて行く。


※ このストーリーは、キネ旬DBをもとにしています。

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