アラン・ロブ=グリエのこと。
アラン・ロブ=グリエが逝去して、もうすぐ1年が経とうとしている。実は、私は彼が亡くなったことを全く知らなかった。
彼の死を知ったのは、昨年の11月ころ、ある本屋で文芸雑誌のコーナーを見ていると、ふと「早稲田文学」に目がとまったからであり、もうとっくに廃刊になっていたと思っていた同誌が、たまたま復刻しているのを目に留めたからだ。
私は懐かしさもあり、手にとってみた。表紙だけ見ると文芸雑誌らしくない、アイドル路線のような体裁を整えている。ちょっと安っぽいなと思いながらよく見ると、そこに「追悼 アラン・ロブ=グリエ」の文字が浮かび上がった。
「えっ、ロブ=グリエが亡くなっていたの」と訝しりながら、ページを繰ってみた。そして、彼の追悼の特集がそこにあった。
アラン・ロブ=グリエという作家は、日本ではなじみが薄いかもしれないが、20世紀半ばフランスを中心に波及した「ヌーヴォー・ロマン」の代表的作家である。「ヌーヴォー・ロマン(新小説)」は「アンチ・ロマン(反小説)」とも呼ばれ、ミシェル・ビュートル、クロード・シモン、ナタリー・サロートなども「ヌーヴォー・ロマン」の作家である。
「ヌーヴォー・ロマン」は19世紀の自然主義的文学に反旗を翻したものであり、起承転結や過去→現在→未来という単一的な時間経過の描写を否定し、言葉が言葉を呼び、イメージがさらにイメージを呼ぶ、女が男になったり老人が少女になったりと非連続的な時間と発想に基づいた作品が多い。そう言えば、昨年、ノーベル文学賞を受賞したル・クレジオもその一人である。ル・クレジオなどは文章、文字までも否定した。たとえば、「彼は、○Ω▽×¢★と言った」というように。
そして、フランスでは「ヌーヴォー・ロマン」と同時期、映画界では即興的演出などを特色とする「ヌーヴェル・ヴァーグ」が誕生することとなる。アラン・ロブ=グリエは、ただ単に小説家にとどまらなかった。映画通であればだれもが知っていると思われる、かの傑作「去年マリエンバートで」(アレン・レネ監督)のシナリオを執筆したのがアラン・ロブ=グリエなのである。また、成功したとは言い難いが、彼は脚本だけでなく映画監督さえもこなしたのである。
私がアラン・ロブ=グリエの名を知ったのは、学生のころに安部公房の対談集だったか、「砂漠の思想」という文集からだったからか、はっきり覚えていないが、そこで彼の作品の「消しゴム」か「覗くひと」だかの話が出てきて、面白そうだからいつか読んでみようと記憶に留めてからである。
当時(1974年 昭和49年)も彼の作品を本屋で見つけるのは難しく、私が彼の作品に最初に触れたのは、、『ニューヨーク革命計画』(1972年 平岡篤頼・訳 新潮社)という内容さえも想像できないタイトルの作品であった。
この作品は、木目から想像したら女からイメージが膨らみ、イメージが動き出し、ついには探偵小説の表紙の絵になってしまったり、不良少年Mがマスクをとると地下鉄の吸血鬼Mとなってしまったり(Mからの連想)、アルファベットの並べ替えで名前が変わっていったりと、自由な発想が発想を呼び、テーマがテーマを呼ぶといった具合に進行していく。
日本でも、『センセイの鞄』でブームを呼んだ川上弘美が芥川賞受賞作『蛇を踏む』で、天井の木目かシミが蛇に見え、その蛇が女になってが女になり、作品の主体の“彼女”と会話をしたり、料理まで作るというのは、ロブ=グリエの手法を踏襲しているように思う。
そして、1977年に発行された文芸雑誌『海』に、『囚われの美女』(岩崎 力・訳)が掲載され、私は嬉々としてペ-ジを捲った。その作品はルネ・マグリットの絵画から作家が着想したイメージを探偵小説的手法で小説にしたものだった。イメージがイメージを呼ぶ、まさにそうした作品である。
その後、1983年、ロブ=グリエは『囚われの美女』を映画監督作品として発表する。彼にとって、小説『囚われの美女』は映画『囚われの美女』ではない。彼の作法で行けば、決してA=Aとはならない。AはBになりCにもなる得るのだ。
ドストエフスキー流に言えば、
「二二が四というのは鼻持ちならない代物である。二二が四などというのは、ぼくにいわせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行手に立ちはだかって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。」(『地下室の手記』江川 卓・訳 新潮文庫)
ということだろうか。
そんなわけで、今日、BS2でかなり以前に放映されて録画していた映画『囚われの美女』を観なおしてみた。イメージで描かれた作品であるから、30年近くたった今でも古さを感じさせない。逆に、新しくさえみえてしまうから不思議だ。
映画『囚われの美女』と小説『囚われの美女』は、不良少年Mと同じように、マグリットという共通要素だけでつながっている。小説『囚われの美女』が探偵小説風に描かれていたのに対し、映画『囚われの美女』はスパイ映画風に描かれている。
ある夜、ナイト・クラブで踊るブロンドの美女に見とれるヴァルテル(ダニエル・メグイシュ)は、女ボスのサラ(シリエル・クレール)から電話で指令を受けるが、指令を受けている間にブロンドの美女は姿を消してしまう。
その指令というのは、コラント伯爵に手紙を届け、その返事をもらってくるという単純な仕事であったが、手紙を届ける途中、怪我をして道路に横たわるブロンドの美女(ガブリエル・ラジュール)を発見する。左足大腿部を負傷している彼女は、不思議なことに後ろ手に鎖のようなもので縛られている。
<(怪我を負った謎のブロンド美女を車に乗せ病院を探しているシーン)
彼は手紙よりも彼女の手当てをすることを優先して、車を飛ばしある屋敷に駆け込む。その屋敷には正装をした男たちが集まっており、医者と名乗る男が二人を部屋に案内し鍵をかけ閉じ込める。そこでブロンドの美女は、あわてることもなくヴァルテルを誘惑する。
翌朝、ヴァルテルが目覚めると彼女の姿はなく、彼の首には吸血鬼に噛まれたような傷ができており、屋敷の中は嵐が去ったあとのように荒れ果てていた。しかし、外の世界は嵐の痕跡はなかった。
屋敷を出て、とあるカフェに立ち寄ったヴァルテルは、ウエイトレスが読んでいた新聞の一面に、大きく彼女の写真が掲載されていることに気づき、ウエイトレスに訊ねると、彼女はマリー・アンジュという名で、彼が手紙を届ける相手のコラント伯爵の婚約者であり、婚約直前に失踪したと言う。
ヴァルテルがコラント伯爵邸を訪ねると、伯爵がたった今、心臓発作で急死したことを告げられる。そして、その死に立ち会っている医師は、昨日部屋に閉じ込めた医師(この場合医師を同じ俳優が演じているのは意味がない。例の如く“医師”つながりで同じ俳優が演じているだけである。)であった。更にそこで、ヴァルテルは彼女が6、7年前に交通事故で死んだことを知る。
ヴァルテルとボスのサラとは恋人であるのかベットをともにする。そこで観る夢。ヴァルテルはマリー・アンジュが海辺で武装した男たちに取り囲まれている夢を見る。その朝、サラもヴァルテルが大声を上げる夢を見たと言うのだ。
ヴァルテルが部屋から出て車で帰る途中、マリー・アンジュが道路にまた横たわっていた。そこへ対向からトラックが現れ、武装した男たちとサラがトラックから降りてくる。男たちはヴァルテルに銃口を向け、ヴァルテルは大きな悲鳴を上げるのだった。
小説『囚われの美女』が38枚のマグリットの絵画からイメージされて描かれているのに対し、映画『囚われの美女』は、マグリットの絵画のイメージはでてくるものの大きな要素を占めていないように思える。映画は「死」で満ちている。それは、ブロンドの美女を死神とするイメージとしての『死の舞踏』、『死と乙女』、そして『吸血鬼』ではないだろうか。
最近、大手通販でアラン・ロブ=グリエで検索してみたら、『覗くひと』、『迷路の中で』、『反復』の3冊が比較的容易に手ごろな価格で購入できそうなので、この3冊を読むことで、私なりの1周忌追悼としたい。
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