« A・タルコフスキー 『惑星ソラリス』 | トップページ | ロマン派と象徴派の画家たち 6 »

2009年8月23日 (日)

読まれなくなった宮城谷昌光

10年ほど前までは、出す作品、出す作品がベストセラーとなり、大脚光を浴びていた宮城谷昌光も最近はあまり読まれなくなっているようだが、彼の作品群でいちばん興味深く面白く読めたのは『孟嘗君』である。

Photo

孟嘗君(田文) BC360年ころ生まれ~BC279年ころ没

時代は紀元前3、4世紀の春秋・戦国時代の戦国時代。このころは戦国時代の中でも華やかな時代であった。斉の都の臨シの人口は最盛期80万人近くまで膨らんだ。 中国全体の歴史から見ても個性の豊かな時代であった。諸子百家といわれるあまたの思想家が輩出され、イデオロギーに縛られず、精神の自由を謳歌していた時代でもあった。

また、中国のどこかで絶えず戦争が行われている状態であったが、人々が人間らしく生き生きとしていた時代でもあったといわれる。
本作は、読後、孟嘗君よりも白圭の印象が強く残るかもしれない。それは白圭の生き方が粋であり、孟嘗君も白圭の行き方に学んで成長していくことが読者の体験となるからである。

しかし、これは作者の創作である。作者は孟嘗君が生きた時代と白圭(魏の相から商人となる)が生きた時代が合うことから、このように結びつけたのであり、孟嘗君と白圭のつながりは明らかではない。ここでの養父関係は作家の想像力の賜物である。もちろん、風洪という人物は作者が創った想像の産物である。白圭の若いころの名前でもない。したがって、孟嘗君が白圭の影響を受けたことも明らかではない。(おそらく、その影響はなかったろう。)

宮城谷の作品で共通して言えるのは、小説手法として、教養小説、いわゆる主人公がさまざまな人の影響を受けて成長していくという『ビルドゥングスロマン』のかたちをとっているということである。簡単に言えば、五木寛之の『青春の門』の中国版である。ただ、主人公が歴史上の人物であることの違いではなかろうか。また、テレビだと『大河ドラマ』だと言えよう。それだけに、読めば読むほど、その世界に入り込んでしまう。私はそんな宮城谷昌光に黒澤明と同じようなヒューマニズムを感じとるとともに、彼の作家としてのドラマトゥルギーを感じる。

とにかく、この作品の登場人物や語られる人物がすごい、春秋戦国時代の名だたる者たちが名を連ね、これを読めば春秋戦国時代がおぼろげながらもわかるのである。

物語の冒頭、西日までも蔽ってしまう大木の槐の描写から始まる。田嬰の邸の2階の部屋までその陰を落とす。その陰になる部屋には田嬰の妾が住んでいる。その名は青欄。青い欄干のある部屋だから、青欄というのは、初めからこの物語は架空の物語ですと読者に断っているかのようだ。

物語の3巻までは、白圭の若きころの風洪の話と公孫鞅=商鞅と孫賓などの話である。孟嘗君=田文がそれらしく登場するのは第3巻の後半からであり、孟嘗君が活躍するのは第4巻から第5巻にかけてである。読者にとってはこれは孟嘗君の話ではない白圭の話だと思う方も多々あると思うが、司馬遷が残した史記列伝でも孟嘗君列伝は文庫本でわずかに15ページ程度。それもほかの列伝に比べて長いほうである。それを2巻にわたって描くことは並大抵ではない。そこに作者の力量が窺がわれる。

物語では、孟嘗君はさま ざまな人の影響を受けて『仁』と『義』を実践した人物として描かれる。また、その登場人物らの話が面白くできている。

『仁~人への愛』と『義~人としての道理、徳』は、儒学の根本であり、まるで孔子の論語を実践したかのようだ。そういう面ではこのまま道徳の本にでも使えそうである。

作者はこう語る。

儒教は、漢の武帝の時代に確立し、儒教国家中国の原型が出来上がってからというものは、中国社会の活力が失われていく。儒教が依拠するのは孔子が考える世界ですから、周を開いた周公旦の思想や人生観が理想とされる。古代の哲学・思想が、最上のものとして信奉されるようになる。漢の時代以降の思想や社会は、逆戻りを始めるのです。

しかしながら、この『仁』と『義』を作者が孟嘗君にあてはめようとしたばかりに、孟嘗君の印象が薄れてしまうことの要因にもなっている。私個人としては、物語である以上、もっと聡明さの中にも豪胆さと不敵な面のある孟嘗君を描いてほしかった。おそらく、数千人もの個性と癖のある食客を囲って統率していたのであるから、親分肌の面があったと思慮される。そうすれば白圭を登場させる必要もなかったのではないだろうか。

『仁』と『義』~仁義は仁侠映画等に使われやくざ言葉に勘違いされている~は、確かに人間として美しいことであるが、『仁』と『義』に生きれば、現代では『白痴』のムイシュキン公爵、『道』のジェルソミーナになるしかない哀しさがあるのも事実である。

実際の孟嘗君はどうだったのか。戦国4君子と呼ばれるところの孟嘗君、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君の中では、最も年長であり、最も優れていたのではないか。斉の名宰相と言われた田嬰の多勢(40人近くいたとも言われる)いる子の中で、孟嘗君が後継に選ばれたこと自体、彼の優秀さをもの語る。

孟嘗君の逸話に、あるとき食客の一人が粗末な食事に怒り、孟嘗君は自分だけ特別な食事をしているのではないかと孟嘗君の食卓をのぞいたところ、孟嘗君も同じ食事であったことに、自分を恥じるとともに、孟嘗君の公平さに改めて信望したというものがあるように、孟嘗君は誰にでも公平に接したのであろう。

ともあれ、本作品は面白味十分であり、孟嘗君が生きた時代と背景を知るには十分過ぎるほどの物語世界を構築している。

< アクスコ倶楽部・『宮城谷昌光の物語世界・其の壱』より http://www.fiberbit.net/user/m31fb2/miyagitani_no_sekai.htm >

ストーリーは『続きを読む』で

【ストーリー】

  田嬰の邸にある大木の槐(えんじゅ)から話は始まる。この槐は田文の母親であり田嬰の妾でもある青欄の哀しみを見守ってきた。

  田文(でんぶん~のちの孟嘗君)は、斉の威王の弟・田嬰(でんえい)と妾である青欄(せいらん)の間に生まれた。

  しかし、父親の田嬰は迷信から、5月5日に生まれた子は親を殺すからと、青欄に田文を殺せと命じる。青欄は田文の命を守るため庭仕事をしている臣下の僕延(ぼくえん)に、宮廷外へ運び出すように託す。

 その田文を縁があって育てるのが、斉の処士・風洪(ふうこう~後の白圭)である。

 やがて、田文の素性を風洪が知るところとなり、実の親である田嬰の元に田文を返す。(第3巻目の終わり間際・・・この間、歴史上の名高い人物、公孫鞅=商鞅、孫賓=そんぴんのピンは正しくは月偏、ホウ涓、蘇秦、張儀などが登場する。)
   
  田文が13歳~15歳のころ、田文は田嬰と初めて顔を合わせる。
「父上が5月5日生まれの子を生かしておいてはならぬと仰せになったのは、何ゆえでしょうか」
   田嬰は苦い顔で言う。
「五月の子は身長が門の高さにひとしくなり、父母にとって害になるということだ」
   田文は舌鋒鋭く反論する。
「そもそも、人の命運は天から授かるものであって、門から授かることではありますまい。もしも、門から授かるものであれば、門を高くすればよいのではありませんか」
   田嬰には返す言葉もない。この機知にとんだ聡明さゆえに、田文は田嬰に子として認められる。

  長じて田文は、二人の親に強い影響を受けて育つ。一人は生みの親・田嬰。もう一人は育ての親である、斉の処士・風洪。風洪は後に周の大商人、白圭となる。
  田文は田嬰のもとに戻ってからも、白圭の颯爽としてスケールの大きい生き方に、人のあるべき姿、すなわち仁を学んでいく。
  白圭は大商人になると決意したとき魯の大学者の尸佼(しこう)にこう語る。

「商人になられるとか」
「は、そのつもりでおります」
「利の世界で生きようとなさる」
「いえ、仁義の世界で生きるつもりです。義を買い、仁を売ります。利は人にあたえるつもりだと思っております」

  社会的責任において買ったものを心で売る。そこで得た利益を世の人に還元する。それが白圭の考えであった。
  そのとおり、白圭は商売で得た利を、病人や孤児を収容する家を建てることに使った。
「人によって儲けさせてもらった金だ。人に返すのはあたりまえだよ」
   これが白圭の仁であった。彼の偉業は私財を投じて黄河に堤を築いたことである。黄河をどう治めるかは太古からの王の悩みの種であった。黄河は、ひとたび氾濫すると何十万をいう死者が出るほどの巨大な河である。
 それゆえに、黄河を制するものは天下を制するとまでいわれていたのである。ところが、周王も諸公も、敵兵を防ぐ壁を築こうとするものの、洪水を防ぐ堤をつくろうとはしなかった。

  田文は、白圭の生き様に、情熱を感じ、仁の大切さを知る。
  白圭は最後まで田文に仁を伝えることを忘れず、死ぬ間際にこう語る。

「人を助ければ、自分が助かる。それだけのことだ。わしは文どのを助けたおかげで、こういう生き方ができた。礼を言わねばならぬ」
「文こそ、父上に、その数十倍の礼を申さねばなりません」
「いや、そうではない。助けてあげてくれた人に礼を言うより、助けてあげた人に礼を言うものだ。文どのに言いたかったのは、それよ」

  この後、田文は、孟嘗君となり、仁を最も広い規模、大きい規模で具現化することになる。

  一方、生みの親の田嬰からは行政、外交のことを学ぶが、特に影響を受けたのは、田嬰が多数(3000人とも言われる。)の食客を抱えていたことである。田嬰のもとで食客を統括していた田文は、父親以上に食客とうまく付き合い、後に彼らの才能を引き出す。
 食客という制度は春秋時代からあったようである。春秋時代の資料に『舎人』という記述があり、舎人は食客でも才能があるものが家来として取り立てられた人のことを指していた。

  田嬰のもとで政治を補佐してきた田文に一大転機が訪れる。韓の昭公と魏の威王を斉の盟下に据えるという外交に成功した田嬰は、その功労で斉の宰相になるが、宣王の時代になると王から疎んじられ、薛(せつ)の国主に封じられる。
  田嬰は後継者を誰にするか悩み続けていたのであるが、これを契機に田文を後継者候補からはずした。そして、田文に薛の外周都市である嘗邑(嘗という町)をあたえる。田文はそれを受け入れ、嘗邑の政治に全身全霊を注ぐ。田文が孟嘗君と呼ばれるのは、この嘗邑を統治したことに因んでいる。(~以降、田文を孟嘗君と呼ぶ。)

  孟嘗君の善政ぶりは諸国に知れ渡るようになるが、嘗邑が栄えることは、田嬰の後継者選択が誤りであったことを暗に示すことになり、さらに薛を治めている異母兄弟が孟嘗君の名声を恨むもとになることから、孟嘗君はそのことに気づいて、嘗邑を去る決意をする。そして、孟嘗君は田嬰が薛の国主になったことを諸国に知らせる外交の任を田嬰に申し出る。

  孟嘗君は、食客を引き連れて諸国漫遊の旅に出る。この漫遊の途上、立ち寄った魏で、宰相の犀首(さいしゅ)に衰退する国力の再生に力を貸してほしいと請われ、孟嘗君は5年限りという条件で承諾し、魏の襄王の下で宰相となるのである。魏の国は農業の国であり、孟嘗君は民には兵役を課さず、家職に専念させる政治を行う。農業の生産性を向上させるためには、戦争を避ける政治を行わなければならない。孟嘗君は巧みな外交で、魏に侵攻を図ろうとする斉に出陣をやめさせる。
  孟嘗君の治世によって国力が富むのをまのあたりにした魏の襄王は、宰相に留まってほしいと懇願され、さらに2年、魏のために尽くす。

  魏の宰相を返上し、斉に戻った孟嘗君は、死の直前の田嬰から、
「文を嗣子とする」
と告げられ、田嬰の後継者として薛を継ぐことになる。

  喪が明けた孟嘗君に、斉の宣王は宰相の座を用意する。領土拡大に執念を燃やす秦や趙の王と違い、斉の宣王は軍事の拡大を図らず、文化の拡充に飽くなき熱意を持ってた。
宣王と孟嘗君の平和思想は、一種の脅威として受け止められたのか、軍事大国と呼ばれる国々も斉に手が出せない状態が続いた。
  そんな中、宣王の薨去を前後して、孟嘗君は楚に攻められた趙と魏の両国を援けるために出陣し、「垂沙の役」で楚を破る。この戦いの戦功で孟嘗君の名は全国に知れ渡るが、征服した土地を「魏と趙で分けられよ」と二国に任せたことで、「孟嘗君は清白の人である」とさらにその名を高める。戦争をしないことが、孟嘗君の仁であったのである。
 「いかなる大国も、田文がいる限り、その小国(薛)には手が出せなかった」と後世言われるように、孟嘗君には侵略思想がないから、他の国々は薛に対し軽々しく軍事行動を起こせなかったのである。孟嘗君を敵にまわすと他の国々が孟嘗君の味方につくと予想されたからである。

  しかし、宣王の後をついでビン王(ビンは三水偏に旁の上が民、その下に日と書くがWEBにはこの字が表示されない。)が即位すると宣王のときと同じような篤い信頼関係は崩れ、孟嘗君の境遇は微妙になっていった。若いビン王にすれば、有能すぎる宰相は煙たい存在であり、忠告や意見が耳障りになる。
  ビン王と孟嘗君がそんな関係にあるところに、孟嘗君の異才ぶりに目をつけた秦の昭襄王が、孟嘗君を秦の宰相に招きたいと申し出てきた。ビン王にとってもってこいの話で、ビン王はそれを許諾する。孟嘗君にとって、秦は安住の地ではなく、斉とも敵対関係にあり、そこへ乗り込むのは危険が大きすぎた。臣下は思いとどまるよう孟嘗君に進言する。

  だが、孟嘗君は、戦国の世は斉と秦の両輪で回っているようなもので、その両輪を調整することができれば、車輪が軋むことも壊れることもないと思い立ち、秦の宰相の道を選ぶ。
また、自分が真の宰相になれば、秦、魏、韓、斉は親交するようになり、楚もこれに加わるはずだから、残る趙、燕がこの大勢力に挑戦してくることはないとも観測していたのである。
「秦が侵略の矛を収めれば天下は安定する。各国が共存し共栄すればよい」
と考えた。

  孟嘗君は秦でも仁の政治を行おうとするが、やがて宰相を解任される。
「孟嘗君は確かに賢人であります。が、斉の王族です。今、秦の宰相にありましても必ず斉の利益を優先にし、秦を後にします。秦は危うくなりましょう」
という臣下の讒言(ざんげん~人を陥れる悪口、誹謗等)に昭襄王は変心したのである。
 秦の昭襄王に捕えられた孟嘗君は、既に王に献じてあった狐のかわごろもを狗(いぬ)の真似をする食客に盗み出させて、王の寵姫に贈り、そのとりなしで釈放される。危地に立たされた孟嘗君は、のがれて夜半に函谷関に来たが、そこには鶏鳴までは開門しない掟があった。このとき、食客の中で動物の鳴き声の得意な者が鶏の鳴き声をまねる。その声を聞いて夜明けと思った兵士が、函谷関の要塞の門を開けてしまう。そして、孟嘗君らは脱出に成功する。
  この逸話が後に、「鶏鳴狗盗」(けいめいくとう~鶏の鳴きまねをして人をだましたり、犬のようにして物を盗んだりする卑しい者。また、どんなくだらない技能でも、役に立つことのあるたとえ。)という四字熟語となる。

  秦から生還した孟嘗君は、斉の宰相に復位し、秦への報復に闘志を漲らせ、斉、魏、韓の連合軍を結成し戦った。連合軍に打撃を受けて恐れをなした秦王は、連合三国への領土割譲を条件に講和を申し出る。孟嘗君はこれをのむが、ビン王は秦に勝っておきながらなぜもっと侵攻しないのかと不満に思う。勝ったという事実を明確にして、その後に外交問題に持ち込んで、敗れた国に恨みを残さないようにするのが、孟嘗君の巧みな戦術であることをビン王にはわからなかったのである。
「勝ちすぎることは亡びに繋がります」
勝利にもほどがあるという孟嘗君の考えを、ビン王は全く思いやることができない。そしてこの収拾策を巡って二人に深い亀裂が入る。

  王は群臣や民のための存在であって、自分のためにある存在ではないということがビン王には理解できなかった。
「田文ありて、斉王(ビン王)なしとさえ言われています。それでよろしいのですか」
という側近の讒言を聞き入れて、ビン王はついに孟嘗君を罷免してしまう。
片や、薛に退いた孟嘗君は食客だった馮駻(ふうかん~カンは当て字)の才に援けられ斉のビン王の迫害を防ぎ、魏の昭王から宰相として迎えられることになる。

  孟嘗君の晩年に食客となったの馮駻は、非凡な才能の持ち主だった。孟嘗君が斉の宰相だったころ数千人の食客を抱えていたが、彼らを養うのに相当なお金が必要だった。孟嘗君は薛の住民にお金を貸していたので、その取立て役を食客から募ったところ、馮駻が名乗りを上げた。馮駻は出発する前に、
「お金を回収し終えたら、何を買ってきましょうか」
と尋ねる。孟嘗君は、
「我が家にないものを買ってきてほしい」
と答えたが、馮駻は薛に着くと役人を使って証文を集めて、全部焼き捨ててしまう。
馮駻は薛から帰って来て、孟嘗君に何を買ってきたかと尋ねられ、
「義を買ってまいりました」
と答えたが、証文を焼き捨てたに過ぎないと知った孟嘗君はムッとする。しかし、孟嘗君は馮駻に罰をあたえるわけでもなく、引き下がらせる。
  馮駻は最初から孟嘗君という人間の器量を試したのである。地位の上の者が下の者を試すのではなく、下の者が上の者を試したのである。斉の宰相を追われた孟嘗君が薛への帰途に着いたとき、馮駻が買ってきた「義」の意味を初めて知ることになる。
  薛にあと百里というところまで来ると、何と老人や幼児の手をとって多勢の薛の民が孟嘗君を迎えにやってきたのである。

  孟嘗君は魏の昭王の下で宰相を無難に務め、斉のビン王が滅んだあと薛に戻り生涯を終えた。

※ これは、宮城谷氏が月刊誌のインタビューにこたえたあらすじから若干の補正を加えたものであり、作品から直接転記したものではないことを断っておく。従って会話の部分は作品と違う部分もあり、わかりにくい部分は補正した。

|

« A・タルコフスキー 『惑星ソラリス』 | トップページ | ロマン派と象徴派の画家たち 6 »

読書」カテゴリの記事