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2009年8月18日 (火)

A・タルコフスキー 『惑星ソラリス』

Solarisimage

映画の中には、小説をもとに製作されたものが多々あるが、私が知る限り原作を超えたのは、『惑星ソラリス』、『2001年・宇宙の旅』、そして『ブレード・ランナー』だけである。

いずれもSF映画であり、SF小説では語ることのできないイメージを映画はあたえてくれるのである。もっとも、この3作は原作に忠実に描いていないし、原作者とは違うそれぞれの監督の世界観や哲学が反映されている。

『ブレード・ランナー』は、全く別物といっていいほど原作の陰は薄い。また、『惑星ソラリス』、『2001年・宇宙の旅』は、原作を読んでも映画ほど印象に残らなかった。

そして、両者の原作者は、映画に批判的である。さもあろう、多くの映画は原作を超えられないのに、自作を超えられてしまったのであるから。

私は学生のころ、池袋の『文芸座』、中野の『名画座』、千石の『三百人劇場』、京橋の『国立フィルムセンター』、新宿の『アート・シアター』、神田の『岩波ホール』などで、名画とよばれる名画を片っぱしから観ていた。

そんな中で、『惑星ソラリス』とであったのである。日ごろから神田の古本屋街を歩いて気になっていたのが、あまり聞いたことのないような映画がかかってるへ岩波ホールであった。その岩波ホールで『惑星ソラリス』が単館上映されていたのである。

私は日比谷の『スカラ座』だったか、『惑星ソラリス』が上映されていたのに、見逃してしまっていたことから、直ぐに入ってしまった。岩波ホールは、岩波書店のビルの中にあり、完全入替制でゆったりと映画を鑑賞できるところであった。

作品の冒頭、バッハのコーラル・プレリュードが流れ、静かな池の中で水生植物が揺らぐ、そのシーンを観ただけで私は画面に釘づけになってしまった。そこに、タルコフスキーの死生観とゆっくりと流れる時間感覚を観る思いがしたのである。そして、このシーンは若くして死去し、黒澤明を尊敬していたタルコフスキーへのオマージュとして、のちに黒澤明が『夢』の中で使用したのだった。

この作品は、一度観ただけでは≪難解≫ゆえに、観るものにいかようにも受けとめられる作品となっている。

科学では測りきれない、観測不能のソラリスが生成する未知なるものの領域に触れた人間の精神の葛藤と苦悩が描かれる。その領域とは、「愛」、「道徳的良心」にもつながる神の領域であった。神という禁忌の領域に触れたからこそ、科学者でありながら彼らは精神を侵された。そして、その救済は、何によってなしうるのか。

それは、作品中にも出てくるが、神の救済と人間の良心について苦悩したドストエフスキイの作品の主題でもあった。

タルコフスキーは映像によって、SF的題材をもとに人間と神とのかかわり、あるいは罪の意識・贖罪といったものを異形の「愛」というかたちで描いて、我々に問題提起したのではなかろうか。

終盤、スナウトの誕生祝をするため図書館にみんなが集まったとき、ハリーは「お客さんはあなた方自身であり、あなた方の良心です」、「私は人間になります。私はあなた方に劣ってはいません」と訴える。そしてクリスは、そんなハリーに近づき、彼女の足元に跪く。『罪と罰』のラスコーリニコフが、娼婦であるソーニャの足元に跪き口づけしたように。おそらく両者は、ハリーにソーニャに神を見たにちがいない。

しかしながら、タルコフスキーはこの作品でそれだけを描いたのではないだろう。

当時、ソ連はスターリンから引き継ぐ社会主義政権下にあり、自由な思想は禁じられ、製作したものは全て検閲にあっていた。詩人である彼の父は、スターリン政権下で抑圧され、詩集の出版さえままならなかった。彼は、ソラリスを社会主義政権そのものとして描いたのではないだろうか。

政治批判も原作があれば覆い隠すことが可能であるとみたタルコフスキーは、レムの『ソラリスの陽のもとに』を選んだ。ソラリスが生み出す幻想は、社会主義政権が生み出す幻想だったのではないか。決して人間を前に向かせない、過去へ過去へと逆行させる幻想。ここに、『惑星ソラリス』の二重構造があると私は考える。

タルコフスキーは、社会主義批判をソラリスに封じ込めた。彼には、検閲官がそこまでわからないだろうというかすかな目論見があったにちがいない。だが、その目論見も簡単にはいかなかった。『惑星ソラリス』が、上映という陽の目をみるまで相当の月日がかかったのだから。

そして、検閲の問題は、次作の『鏡』のモチーフの一つへと連鎖するのである。

< アクスコ倶楽部・『魂の映像詩人タルコフスキー』より http://www.fiberbit.net/user/m31fb/tarkovsky_solaris.htm >

【ストーリー】

ソラリスの表面はプラズマ状の海につつまれ、この海は、人間の意識・無意識を具現化する。この海を調査するため派遣されていた宇宙ステーションの乗組員である科学者たちは、ソラリスの影響により期日が来ても帰還ことなく、意味不明の報告ばかり送ってきた。そして、ついには、地球基地との交信をも断ってしまう。

未知の惑星ソラリス。その調査は、プラズマの“海”の理性活動の徴候により行き詰まり、海に接触しようとする試みはすべて失敗に終っていた。数年前、ソラリスから帰還したバートン中尉の報告をビデオでみるクリス(ドナタス・バニオニス)は、当初ソラリスの研究に否定的であったが、父親の説得もあり、翌朝、ソラリス上に浮かぶ宇宙ステーションへ飛んだ。

三人の学者のいるはずの宇宙ステーションは、静寂と荒廃の兆に満ちていた。クリスの友人の物理学者・ギバリャンは既に原因不明の自殺を遂げており、残された二人、スナウト(ユーリー・ヤルヴェト)とサルトリウス(アナトリー・ソロニーツィン)も何かにおびえ、自閉的である。彼らはクリスに二人以外の人影を見ても気にするなという。クリスはこの謎を解明しようと、死んだギバリャンが残したクリス宛のビデオを発見するが、海にⅩ線を放射したこと以外、謎をとく鍵はなかった。

サルトリウスの部屋では他の人影を見、ステーション内を歩く少女を見かけるクリス。冷凍室に消えた少女のあとを追うと、そこにはギバリャンの遺体があった。やがて、眠りについたクリスが目覚めた時、数年前に死んだはずのハリー(ナターリヤ・ボンダルチュク)が出現したのである。クリスはその女・・・ハリー・・・の服のあわせ部分がなく、ソラリスからの客だと気づき、彼女をロケットに乗せ打ち上げる。

自室に戻った彼にスナウトはX線放射以後、海は人間の意識下にある人物(客)をここに送り込んでくることを話す。案の定、ハリーは戻ってきた。ドアを閉めても傷つきながらドアを破ってクリスを追ってくるハリー。その傷の手当てをしようとクリスだったが、傷はみるみるうちに回復していった。

図書室でのスナウトの誕生祝いの席上、ハリーは、自分達(客)は『人間の良心の現われ』ではないかと発言し、考え込む。そんなハリーのそばにより、ひざまずくクリス。その後ハリーは液体酸素を飲んで自殺を企てるが、やがて蘇生する。クリスは、いつしかハリーを愛の対象と考えるようになっていたのである。

クリスは自らの意識をⅩ線放射することを提案する。彼は眠りの中、地球の家、母、ハリーらの夢を見る。目覚めるクリス。だが、ハリーは置手紙を残して消えた。そして、クリスは地球へ帰還する。しかし、その帰還もまたソラリスの意思に支配されていたのだった。

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