A・タルコフスキー 『ノスタルジア』
『ノスタルジア(NOSTALGHIA)』は前作『ストーカー』を経て、タルコフスキーがソ連から正式に亡命し、イタリアにおいて製作した作品である。冒頭のモノトーンのシーンからすでに重たい郷愁が漂う。その後タルコフスキーが帰ろうにも帰れなかったロシアの地に想いは翔る。
ワンシーン・ワンシーンが計算された構図と詩情と絵画性に溢れる。それにしても、タルコフスキーの作品には『水』が重要な要素を占める。
タルコフスキーは、『水』について最も美しいイメージだと語る。そして、それは日本で思われているようにと・・・。この『水』の概念は、おそらく東洋思想の『老子』が原点となっている。『上善は水の如し』である。
しかし、それだけではないだろう。『水』は鏡に繋がる。人を景色をそこに映し出す。そして、浄化作用。その意味において『ノスタルジア』は水の美しさを描いた作品であるとも言える。
タルコフスキーは、郷愁(ノスタルジア)は死に至る病だと語る。確かに、『郷愁』は人が幸福のときには感じないものだろう。絶望の淵にあるとき、何かにすがりたいときに救いの場を求める。その場とは、人が生れ出でた故郷なのだろう。
それは、『惑星ソラリス』からのテーマでもあった。かつて安部公房は、郷愁はセンチメンタリズムであり人間には害悪だというようなことを語っていた。おそらく、タルコフスキーの語る郷愁と同意義であるにちがいない。そして、タルコフスキー自体、この頃、自分の死を予感していたのかもしれない。
そして、アンドレイの分身としての『ドメニコ』。アンドレイは、最初会ったときからドメニコに興味を示す。そこには芸術家としての共感以外に、内面の苦悩、つまり孤独を共有しているという繋がりがある。街角をさすらうアンドレイが、ふとドアを開けようとしたとき、窓ガラスに映ったのは自分の顔ではなくドメニコの顔だった。。あわててドアを閉めるアンドレイ。
そこでアンドレイは、ドメニコが自分の分身だと気づくのである。いや、最初からドメニコをそうして見ていたのである。このときの窓ガラスは、自分の内面を映し出す『鏡』の役割を担っている。ドメニコが呟く、『1滴プラス1滴は2滴ではなく、大きな1滴となる』という観念は、ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公が呟く、
「・・・それにしても、ニニ(ににん)が四というのは鼻持ちならない代物である。ニニが四などというものは、ぼくにいわせれば破廉恥以外の何物でもない。ニニが四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行手に立ちふさがって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。ニニが四がすばらしいものだということは、ぼくに異論はない。しかし讃めるついでに言っておけば、ニニが五だって、ときには、なかなか愛すべきものではなかろうか。」
と同じ観念でもあろう。世の中、すべて数字(公式)や科学で表すことはできないのである。特に芸術家の精神はそうに違いない。
『ノスタルジア』において『水』の次に大事な要素が『火』である。すべてを焼き尽くす火。過去、そして故郷さえも焼き尽くしてしまう火。それは『鏡』でも使われたが、『ノスタルジア』では、破壊としての火というよりも世界を救うための火として使われている。
ドメニコが世界の救済を呼びかけ焼身自殺を図る火、温泉広場の端から端まで蝋燭の炎を消さずに渡れたならば世界は救われるという、蝋燭の火。この作品での『火』は贖罪としてのイメージなのである。
そうしたイメージの連鎖で『ノスタルジア』は構成されている。言葉では語れない、視覚で訴えるイメージ。タルコフスキーは映像本来のもつ特性を最大限に活用し、彼の天性の映像感覚で詩情豊かに創造したのが本作品である。
この作品では、アラン・レネ監督と画家フリードリッヒの影響を見逃すわけにはいかないだろう。冒頭故郷の風景での人の配置と構図、ドメニコが演説するのを階段で眺める人々の配置と構図は、明らかにアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』の影響が窺われ、アンドレイ、エウジェニアが宿舎の窓から外を眺める構図は画家フリードリッヒの『窓辺の女性』を、そしてエンディングは、『エルデナ修道院跡』そのものである。(夢の美術館、特集ダリ参照)
また、『水』の結晶体である『雪』が降りそそぐエンディングは、雪国ロシアにたいする郷愁の究極的なイメージにちがいない。
ちなみに、本作の脚本家トニーノ・グェツラは、アントニオーニの『情事』、『太陽はひとりぼっち』、デ・シーカの『ひまわり』、フェリーニの『アマルコルド』、タビアーニ兄弟の『サン・ロレンツォ』の脚本も担当している。
私は、この作品が早くデジタル・リマスターされ、ブルーレイ化されるのを望んでやまない。
< アクスコ倶楽部・『魂の映像詩人タルコフスキー』より http://www.fiberbit.net/user/m31fb/tarkovsky_nostalghia.htm >
【ストーリー】
イタリア中部トスカーナ地方。朝霧がけむる風景のなかに男と女が到着する。男はモスクワから来た詩人アンドレイ・ゴルチャコフ。女は通訳のエウジェニア。ふたりは、18世紀にイタリアを放浪し、故国に帰れば農奴になると知りつつ帰国して自殺したロシアの音楽家パヴェル・サスノフスキーの足跡を追って旅をつづけてきたが、旅もすでに終りに近かった。
古都シエナ南東の村まではるばる来たのは、アンドレイがマドンナ・デル・パルトの聖母画を見たがっていたからだが、アンドレイは車に残り、エウジェニアひとり、教会を訪れる。ピエロ・デラ・フランチェスカが描いた出産の聖母像に敬虔に祈りを捧げる女たちと、跪こうとしても跪けないエウジェニア。
村の広場の温泉で知られる、バーニョ・ヴィニョーニの宿屋で、女主人が起きてくるのを待ちながら、アルセニイ・タルコフスキーの詩集をイタリア語訳で読んでいるというエウジェニアに、アンドレイは「詩は翻択できるものではない、すべての芸術も」という。どうすれば私達は理解しあえるのと問う彼女に、アンドレイは事もなげに答える。「国境をなくせばいい」と。
アンドレイの夢に故郷があらわれる。なだらかな丘の小さな家。木々と1本の電柱。妻とふたりの子供。白い馬とシェパード犬、そしてタ陽。
シエナの聖カテリーナさえ訪れたとされる広場の温泉に、今は、退役将軍ほか数人の湯治客が朝からよもやま話に花さかせながらつかっている。話のおちつく先はたいてい、ドメニコだ。世界の終末が訪れたと信じて家族ぐるみ7年間もあばら家にとじこもったために狂人と呼ばれ、聖カテリーナと言葉をかわしたと言って狂信者と噂されるドメニコが、その朝はめずらしく、シェパード犬をつれて広場へ散歩にきたのだった。アンドレイは何か強く心をうたれ、エウジェニアを通して、ドメニコと話そうとするが、エウジェニアは鏡の間にはさまったようないらだちを感じて、アンドレイをすてて去る。
ドメニコのあばら屋に入るアンドレイの目に思いもかけぬ風景がひろがる。たどたどしいイタリア語で話しかけるアンドレイに、ドメニコは、自分が果たせなかった願いを託す。ドメニコ自身は、村人や湯冶客から狂人扱いされて広場に近づくだけで危険視されるのだが、あの広場を、蝋燭の火を消さずにわたることができたなら、世界はまだ救われうるというのだった。
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