モロッコの羊飼いの少年が放った1発の銃弾、その銃弾はスーザン(ケイト・ブランシェット)の肩を貫き、モロッコからアメリカ、メキシコ、そして、日本へと世界を駆け巡った。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル(BABEL)』(2006年・米・メキシコ)を観た。
バベルとは、旧約聖書・創世記に語られる都市である。
創世記では、バベルの塔について
もともと世界の人々(ノアの方舟の子孫)は同じ言葉で話していた。そこに、東の方から移動してきた人々が、シンアルという地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。更に、彼らは有名になるため、天まで届く塔を建設しようとしたのである。
神は、天まで届きそうな彼らが建てた塔を見て怒り、彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできないと思い、彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにした。
それから神は、二度と同じようなことをさせないために、彼らをその町から世界中に散らばらせ、彼らのコミニュケーションを断ち切ったのである。
そして、町の名は言葉を混乱(バラル)させたことから、「バベル」と呼ばれるようになった。
というように記述されている。
映画『バベル』が、この創世記をモチーフに作られていることは確かである。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、世界の人種と言葉の違い、生活習慣、偏見、自己主義等からくるコミュニケーションの不在を描こうとしたのは、タイトルからも窺われる。
ある日、山羊の放牧を営むアブドゥラの家へ1丁のライフル銃を売りに男がやってくる。ジャッカルから山羊を守るために、アブドゥラはライフル銃を買うことにする。しかし、撃ち慣れていないライフル銃はアブドゥラの息子・アフメッドとユセフにとって興味津々のものであった。
彼らは、なかなかうまく当たらないライフル銃が3キロ先まで狙うことができるとの男の話に疑問を抱き、当たるか否かだけの単純な子供の発想で、遠くを走る車に狙いを定めるのであった。そこには人がいて、当たれば死ぬかもしれないということは一切頭にはなかったのである。
しかし、バスを狙った弟・ユセフの銃弾は観光客の女性の肩を貫いたのだった。もちろん兄弟はそんなことは予想だにしなかった。不意にバスが止まったことで、彼らは自分たちの行為の重大さに気づき、現場から立ち去る。
一方、撃たれた観光客は、アメリカ人のスーザン(ケイト・ブランシェット)であり、その夫・リチャード(ブラッド・ピット)と夫婦にできた深い溝を埋めるための旅であった。彼らは生まれたばかりの子供を亡くしたことで、お互いのコミュニケーションを失っていた。
リチャードは医療機関もない僻地に苛立ち、バスに居合わせた観光客らはテロではないかと思いこみ、留まっていては自分たちの命も危ないと先を急ぐ。スーザンが出血多量で死ぬかもしれないというのにもかかわらず、彼らは自分のことしか考えない。ここにもコミュニケーションの不在が姿を現す。
そして、リチャード夫妻がアメリカに残してきた子供にも危難が襲う。その日、メキシコ人の乳母・アメリア(アドリアナ・バラッザ)の長男の結婚式があるために、子供たちを別のベビーシッターに預け、メキシコへと向かう予定だった。しかし、その予定も崩れ、アメリアはしかたなく二人の子供を連れて甥・サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の運転でメキシコに向かうことにする。
結婚式が終わり、長男たちがサンチャゴが飲酒運転で帰ろうとしていることで、泊まって帰るように勧めるのだが、アメリアは子供たちがいることで一日でも早く帰ろうとする。アメリカへ帰る途中の国境では、入国手続きのために、パスポートを提示しなければならない。
当然のように、出国は容易いが、入国は厳しく審査される。サンチャゴが提示したパスポートは偽造パスポートであり、その上、飲酒運転である。更には、メキシコ人とは違う白人の幼い子供二人を乗せており、入国警備官の質問にサンチャゴは二人を甥と姪と応えるという軽薄さである。
不審に思った入国警備官は彼らを留めようとするが、サンチャゴは制止を振り切って逃走してしまう。そして、暗闇の中、闇雲に逃げ惑うサンチャゴの運転に恐怖を覚える子供たち。そんな子供たちを乗せていることにうんざりするサンチャゴは、アメリアと子供二人を砂漠に残して立ち去る。
日が昇り砂漠の中を疲労困憊で彷徨い歩くアメリア達、結局は保護されるのだが、アメリアは16年間、アメリカに不法残留していたことがわかる。信頼していた乳母は、不法就労者だったのである。ここにも雇い主と雇われ人とのコミニュケーションの不在が露呈する。
そして、もう一つのコミュニケーション不在の物語。それは、モロッコ人の男に、旅行のガイドのお礼の意味でライフル銃を渡したヤスジロー(役所広司)とその娘・聾唖のチエコ(菊地凜子)の物語である。
ヤスジローは高級車を乗りまわし、高級マンションに住むエリート・サラリーマンであり、その妻は数ヶ月前にけん銃自殺をしていた。そのことが原因で、父と娘の間に深い亀裂が横たわっていた。
チエコは聾唖者であることで、同世代の男たちから自分たちが怪物のような目で見られ、普通に男とコミュニケーションできないことで苛立ちを覚えている。
そんな中、ライフル銃の関係で刑事二人がヤスジローに事情聴取に訪れるが、ヤスジローは不在だった。チエコは、刑事の一人に心惹かれる。
彼女はその刑事を話があるということで、マンションの自宅に呼び出す。そこで、彼女は裸になり刑事に抱いてもらおうとするが、拒まれる。しかし、刑事はそんなチエコの心の不安に気づきやさしく抱擁する。
マンションを出て行こうとする刑事と帰ってきたばかりのヤスジローが、マンションのエントランスで出会う。刑事はモロッコの事件を語るが、ヤスジローは「それは私に責任のないことですよね」とあっさりと答える。そこには、人が重体に陥っていることの気遣いは微塵もないものであった。
部屋に入ったヤスジローはチエコを探す。現代の“バベルの塔”のように天まで聳える都会のマンションのバルコニーで裸のまま立ち竦んでいるチエコ。ヤスジローは、そんなチエコを見つけ抱きしめるのであったが、果たして二人にコミュニケーションが復活するのだろうか。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」と語っているが、それは真実に違いない。
そして、「人間の大きな悲劇は、愛し愛される能力に欠けていること。愛こそが、すべての人間の生と死に意味を与えるのものなのに」ということも真理であろう。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、コミュニケーションの不在は愛の不在だと問う。
モロッコの僻地で放たれた一発の銃弾は、それぞれの国の人間(家庭)のコミュニケーションの不在を暴くことになるのだが、結果的に、それぞれの人間の心を結びつけたとは言い難く、モロッコの少年の家庭を崩壊したことの方が、私にははるかに重くのしかかってくるのである。
ともあれ、最近の映画の中では、観て何かを感じさせるいい出来の作品であった。音楽も非常にいい。ただし、画像は、それが意図的であったか、予算不足なのか分からないが、満足のいくものではなかった。映画にとって命でもある映像に何の工夫もなかったとしたら、それはTV放送で済むのではないだろうか。
映画は映像+台詞+音(音楽)の3大要素が統合した芸術の総称である。だからこそ、映画は『総合芸術』といえるのだと思う。
TVがなかった時代ならばともかく、TVで制作できるような映画では、それは映画に値しないのではないだろうか。その分、私の甘辛評価では低く評価させてもらった。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の次回作に期待を込めて…。
私的甘辛評価 ★★☆ (満点は★4つ、☆は0.5点)