絵画

2009年11月21日 (土)

ロマン派と象徴派の画家たち 7

バーン=ジョーンズ (エドワード・バーン=ジョーンズ 1833-1898 イギリス)

A不吉な顔(一部)(1886~87年 クワッシュ)

バーン=ジョーンズは、英国バーミンガムに生まれ、オックスフォードのカレッジで後にモダンデザイナーの父と呼ばれるウィリアム・モリスと親交を暖める。

二人はもともと牧師になる予定だったが、中世ゴシック建築や美術に興味を抱いているうちに、芸術家になることを決意する。

大学卒業後、二人はロセッティが指揮する天井画の制作に加わり、ロセッティの影響を強く受け、バーン=ジョーンズは画家となる。一方、モリスはロセッティを代表とするラファエル前派のモデルを勤めていたジェーン・バーデンと結婚することとなるのである。

バーン=ジョーンズの描く絵の女性は、どことなくロセッティの描く女性を彷彿とさせるが、ロセッティの方は男っぽさがあり、バーン=ジョーンズはより女らしく思える。彼が裸婦を描くときの丸みのある曲線、愛らしい目の描き方については、アングルの影響も少なからずあるのではないかと私は思う。

ところで、この『不吉な顔』は、ギリシャ神話の逸話からなる。ギリシャ神話の中でよく知られるゼウスの子でありヘラクレスの父であるペルセウスは、蛇の頭を持ちその顔を直接見たものは石になるというメデューサを退治したあと、エチオペアの王妃カシオペアの前に現れる。カシオペアは、怪獣の餌食にされるため海辺の岩に鎖で繋がれた王妃の娘・アンドロメダを助けたら妻に出来るという約束をペルセウスにする。アンドロメダは、カシオペアが「自分の娘・アンドロメダは、海のニンフ達より美しい」 と自慢したことから、海神・ポセイドンの怒りをかい、海の怪獣の餌食にされていたのである。そこで、ペルセウスは、メデューサの顔を怪獣に向けて怪獣を石にすることによって、アンドロメダを助けるのである。

『不吉な顔』は、ペルセウスが戦利品であるメデューサの顔を井戸の水を鏡にしてアンドロメダに見せようとしている構図である。女の手をとりながら戦利品を丈高に見せようとする男の猛々しさと、恐る恐る見ようとするアンドロメダの女らしさが、「不吉な顔」のメデューサを配して象徴的に描かれている。

絵画史において、ペルセウスとアンドロメダの逸話は数多く描かれているが、その後の二人を描いた絵はあまりないのではないか。この絵は、アンドロメダ救出後のバーン=ジョーンズの想像の産物かもしれない。前述したように、彼の描く絵にはロセッティの影響が色濃く窺われるが、ロセッティにも増して幻想的な作品となっている。

バーン=ジョーンズは、神話的世界に男と女の根源的無意識を封じ込めたのである。

ちなみに、バーン=ジョーンズの『眠り姫』(下)は、つい最近までこのブログのタイトル絵にしていた。

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2009年9月 9日 (水)

ロマン派と象徴派の画家たち 6

モロー (ギュスターブ・モロー 1826-1898 フランス)

Moreauオイディップスとスフィンクス(1864年 油彩)

1864年、モローの『オイディプスとスフィンクス』は、パリのサロンで好評を博し、一躍有名となった。

そして今、『オルトロスの犬』という「神の手」と「悪魔の手」をめぐるドラマでもこの絵が使われている。

モローは、「ロマン派と象徴派の画家たち 1」にも書いたが、イギリスを中心としたラファエル前派から派生した象徴主義絵画の代表格である。

そもそも象徴とは、ある一つのものを提示することによって、もう一つのものを暗示することである。

つまりは、死を描くことによって生を象徴する。その逆もまた同じである。

イマージュがイマージュを生む。幻視が幻視を呼ぶ。イマージュと幻視の重層化こそが象徴なのである。

象徴派絵画に向けた視線は、その絵画から生まれる異質な二つ以上のものの領域に溶け込み、かつ変容しながら、ある一つのものに統合させつつ、新しいイマージュの世界を現出させていくのである。

モローは宗教や神話を素材にその幻視の世界を描いた。そこにイマージュされるのは、「愛」であり、「性」であり、「哀しみ」であり、「悦び」であり、そして、「生」と「死」、「現実」と「夢」、「闇」と「光」、あるいはその複合体などなど、観る者によって様々に姿を変えるのである。

この絵を描いた3年後、モローの「プロメテウス」はサロンで酷評され、その後9年間、彼は沈黙する。しかし、「サロメ」の連作によって、再びよみがえるのである。

象徴派の画家たちが描く絵には、神秘的な美と退廃的な美が漂う。そして、私がモローの描く絵に惹かれるのは、より一層の神秘と退廃をそこに嗅ぎとれるからに他ならない。

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2009年8月10日 (月)

ロマン派と象徴派の画家たち 5

ロセッティ (ダンテ・ガブリエル・ロセッティ 1828-1882 英国)

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プロセルピナ(1877年 油彩)

ロセッティは、イギリスのヴィクトリア王朝期の美術に革新をもたらした。彼は、いわゆるラファエル前派の象徴主義画家であり詩人でもある。

ラファエル前派が目指したものは、当時最高の芸術とされていたラファエルの劇的で、わざとらしさを否定し、アカデミックな様式からイギリスの絵画を解放し、ラファエル以前の、自然主義的な素朴さへに戻そうとしたものである。同グループは、ロマン主義的な絵画で人気を得た。美を追求し、繊細な写実は、様式的にはアカデミーと同じであるが、理念的には象徴派へとつながって行ったのである。グループ自体は、1850年代までしか続かなかったが、人気は衰えず、その後の象徴主義絵画のみならずシュールレアリスム運動にも、大きな影響を与えることとなった。

ロセッティは緻密な自然描写に加え、独特の色彩感性により官能的、かつ神秘的な女性像を配した。そこには画家の美意識が窺われ、19世紀後半の世紀末の憂愁と頽廃美がある。

ロセッティの中世趣味と女性像はエドワード・バーン・ジョーンズらに引き継がれた。

ロセッティは、破滅的な人生を送る芸術家の典型であった。彼はモデルに狂おしくなるほどの美女を求めた。そして、彼は画家とモデル以上の関係を結ばなければ、モデルとして描こうとしなかった。愛と官能と背徳の美が彼の絵の裏側に見え隠れする。だからこそ、彼の作品に惹きつけるものがあるのではなかろうか。

詩篇「神曲」や「新生」で知られるダンテ。ダンテには、24歳で亡くなったベアトリーチェという永遠の恋人と呼ばれた女性がいた。ダンテは、ベアトリーチェ死後も彼女に恋い焦がれながらこの世を去る。その詩人の死から500年後、同じ名前を持つ画家は、ベアトリーチェの面影を追い求めた。画家の名前はダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ。彼は1828年にイタリア人亡命者・・・イタリアにおいて革命的秘密結社に関係したかどで死刑判決を受けた詩人であり学者であった・・・の長男としてロンドンで生まれる。

ロセッティは早くから人生を絵画と文学に捧げようと決めていた。しかし、彼はアカデミーの美術教育に失望した。ルネサンスの巨匠ラファエルの芸術を絶対とするアカデミーの伝統に納得出来ないロセッティは、20歳のとき退学を決意し、友人の画家らとともに『ラファエル前派兄弟団』というグループを結成する。「聖母マリアの少女時代」はラファエル前派を結成した当時に描いた始めての油絵である。中世のフレスコを思わせる画風と鮮やかな色彩。その中に込められた聖書の物語がそこにある。

ロセッティは、モデルにモデル以上の関係を求めた。そして、そのモデルは、美以上のものを持っていなければならなかった。それは、彼の絵を観れば、おのずと理解が及ぶことであろう。

ロセッティにとって、ファム・ファタール(宿命の女)は3人いたのである

ロセッティがエリザベス・シダルという女性と出会ったのは22歳の時、帽子屋の店員をしていた彼女は、ラファエル前派の画家達に愛されたモデルであった。テート・ブリテン美術館には、彼女がモデルとなった「ベアタ・ベアトリクス」。そして、その絵の隣の部屋には、シダルがモデルを務めたもう一枚の絵がある。ラファエル前派の仲間だったミレイの「オフィーリヤ」(夢の美術館に展示)である。

ロセッティにとってシダルこそ理想の女性であり、か弱く神秘的なシダルは、ダンテの恋人ベアトリーチェそのものであった。彼はシダルと婚約し一緒に暮らし始める。夢見るような眼差しと透けるような肌を持ったシダルは、ロセッティにとって霊感の泉だったのである。

そして、ロセッティはもう一人の運命の女と出会う。ジェイン・バーデンという17歳の少女である。彼の心はシダルから離れていき、ジェインをモデルに、詩人ダンテと自らの愛を重ね合わせ、その思いを捧げるようにベアトリーチェを描き始める。

ロセッティの新しい恋は、画家モリスとジェインが結婚したことで終わったかに見えた。そして、ロセッティはシダルと正式に結婚する。彼は、結婚後も他の女性達と関係を持った。シダルとは正反対のファニー・コンフォースのような性的で肉感的な女性とも並行して関係を続けた。

病弱だったシダルは、心労を重ねた末に赤ん坊も流産してしまう。彼女は、常用していた阿片を過剰に服用し、「乾ききった心が永遠に私を取り巻いている。魂のない目が私に魔法をかけるのをやめた。主よ、あなたのもとに行けるでしょうか?」という言葉を残して32歳の短い生涯を終えたのである。

<アクスコ倶楽部・『ロセッティ展』から http://www.fiberbit.net/user/m31fb/rossetti.htm>

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2009年6月 8日 (月)

ロマン派と象徴派の画家たち 4

ミレイ (ジョン・エヴァリット・ミレイ 1829-1896 英国)

オフィーリア(1852年 油彩)

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ミレイはロイヤル・アカデミーで知り合ったロセッティらとともに、ラファエル前派を結成した。そして、そのラファエル前派はヴィクトリア時代のイギリス美術に一つの改革をもたらしたのである。彼の細密克明な自然描写と甘美な女性像はあまりに鮮烈である。

私は、このオフィーリアの絵をデスクトップの壁紙にしている。横長のディスプレイにはピッタリだと思うのだが、どうだろう。

オフィーリアの出展は、もちろんシェークスピアの戯曲『ハムレット』からである。オフィーリアは、愛するハムレットに父親を殺害された上に、ハムレットにも棄てられたと思い気がふれてしまう。

そして、川辺で花を摘んでいるうちに足を滑らせ、転落してしまうのである。オフィーリアは、しばらくの間は賛美歌を歌いながら川面に浮いているのだが、やがて水没する。

あまりに哀れな最期を遂げたオフィーリアの死を、ミレイはこの絵において、象徴的に描ききったのである。

ミレイのオフィーリアのモデルは、彼の友人でもあるロセッティが後に妻とするエリザベス・シダルであり、彼女はラファエル前派の画家たちに人気のモデルだったが、睡眠薬の常用のし過ぎで32歳の若さで他界した。

一説では、シダルはこの絵のモデルで何度もバスタブにつかり、そのせいで風邪をこじらせ、死に至ったとも言われている。

オフィーリアとシダル。今では、この絵に二人の女性の死を重ね合わせて観ることができるというのは、まさに神話めいている感がある。

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2009年6月 1日 (月)

ロマン派と象徴派の画家たち 3

キリコ (ジョルジョ・デ・キリコ 1888-1978 イタリア)

街の神秘と不安(1914年 油彩)

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キリコは、自ら形而上絵画と称した。そして、その時、彼は形而上絵画の創始者となった。

キリコがシュルレアリスムに影響を及ぼしたことは周知の事実であり、ダリの初期の作品を観ても、キリコの影が色濃く漂っている。

そもそも形而上とは、時間と空間の概念を越えた超自然的な観念の世界ものであり、形而下の現実では形を成さないものをいう。

キリコは、形を成しえないものを絵画や彫刻という形によって表現しようとした。それは、象徴としての絵画・彫刻であり、キリコもまた象徴派の一人に数えられる所以でもある。

ところで、キリコは『街の神秘と不安』で何を表現しようとしたのだろうか。

白亜の建造物にまぶしいくらいに照りつける光、広場に通じるであろう道にも同じく強い光が立ち込める。

その光のせいか、建物の裏側は薄暗さが増す。空は青いが、白亜の建造物を照らす光とは裏腹に薄暗く光の存在感はない。

輪回しで無邪気に遊ぶ少女は逆光の中で描かれる。その表情は見えない。おそらく、輪を回し続けることに夢中で、その先に忍び寄る戦争の影は見えていないのだろう。

1914年、第一次世界大戦の勃発したこの年、イタリアではファシズムが少女の先に忍び寄る影の如く芽吹きはじめる。

果たして、少女はこのまま広場にたどり着き、そして無事に家路へとたどることができるのだろうか。

私がキリコの作品の中で、最も惹かれるのはこの絵である。輪回しの少女とその先に待ち構える影が、何とも言えない漠とした不安を醸し出す。

それは、そこに「無邪気な生」と手をこまねいて待つ「悲惨な死」が、一つの絵に封印されているからに他ならない。

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2009年5月14日 (木)

ロマン派と象徴派の画家たち 2

クノップフ (フェルナン・クノップフ 1858-1921 ベルギー)

Memories(パステル画)

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クノップフは象徴主義の作家の第一人者である。その第一人者たらしめる一枚の作品こそが『Memories』であろう。

この絵には、何とも言えない不思議さが漂っている。

一見すると、これからテニスをしようとするために集まった女性たちでもあり、テニスをし終わって帰ろうとしている女性たちのようにも観える。

もちろん、100年以上もの前、はるか昔の貴族階級にしかできなかったテニスである。そして、「昔はこんな格好でテニスをしていたのか」と思うだけで、次の絵を観てしまう。

しかし、もう一度、戻って観てみると、最初に観た印象だけではすまなくなる。「何かが違う」、「どこか、不思議だ」という具合に。

この絵に登場している7人の女性は、互いに視線を交わしていない。右に横顔を向けている2人以外は視線の方向も様々である。

そして、この絵を観るであろうギャラリーにさえも視線を向けていないのである。

不思議なのは、それだけに止まらない。7人の女性の顔をよく観ると、みな似た顔をしているのだ。(もっとも、判別できるのは5人であるのだが…)

それもそのはず、この絵のモデルはクノップフの妹・マルグリットなのである。

7人の女性の中で、ただ1人だけ帽子をかぶらず、ラケットも持っていない女性が描かれているが、クノップフはこの女性の分身として他の6人を描いた。その女性は、まるでウエディングドレスのように白いドレスを着ているではないか。

タイトルが『Memories』(記憶もしくは思い出)となっていることを鑑みれば、おそらくこの先嫁いでいくだろう妹を自分の「記憶に刻み込む」ために描いたのだろう。

いや、それだけでは、この絵の不思議さは伝わってこない。記憶に刻み込むためなら、淡くなっていくパステル画にはしなかったろう。

記憶や思い出は、その人の「死」によって淡くなっていく。だからこそ、今ある「生」が美しく感じられるかもしれない。そして、だからこそ、クノップフはパステルでそれを象徴として描いた。

クノップフは、「記憶」とは裏返しの、今現在の現実に存在する妹の「美」そのものを、誰にも目を合わせないように、自分ひとりのものにして、この作品に封じ込めたのではないだろうか。

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2009年4月 2日 (木)

ロマン派と象徴派の画家たち 1

Manandwomancontemplatingthemoon182( カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ 『月を眺める男女』)

一口にロマン派(Romanticism ロマン主義)といっても18世紀末から19世紀にかけての哲学、文学、美術、音楽、果ては政治にまで及ぶのであるが、こと絵画におけるロマン主義は、古典的・伝統的な“見えるもの”を描くのではなく、“見えないもの”を描く試みであったと言える。それは、「死」であったり、「夢」であったり、「無意識」であったりする。

それは、イマージュの世界であり、言葉では言い表せないものである。そして、そこから究極のイマージュを追求した19世紀末の象徴派(Symbolism 象徴主義)が派生していくのである。いずれも世紀末に台頭したということで共通する。

ロマン派の作家といえば、その代表格はカスパー・ダヴィッド・フリードリヒであり、象徴派の代表格はギュスターブ・モローだと言えよう。そして、ロマン派から象徴主義への橋渡しをしたのがダンテ・ガブリエル・ロセッティエドワード・バーン=ジョーンズではないだろうか。

私が、ロマン派や象徴派に魅せられるのは、彼らの描く絵に“崇高な死の翳”が色濃く漂っているからである。それは未知の領域、かつ神秘の領域でもあり、生あるものが絶対に避けることのできないものこそが、“死”であるからに他ならないのだ。

Mor10a_2  (ギュスターブ・モロー 『オルフェウスの死』)

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2008年6月 9日 (月)

『モディリアーニ展』へと

Modigli_2昨日、六本木にある国立新美術館で開催されている『モディリアーニ展』を観賞してきた。

私がモディリアーニを知ったのは、絵画を観てからではなく、ジャック・ベッケル監督の『モンパルナスの灯』を観てからだと思うのである。いつ、どこで観たかは覚えていない。

誰からも評価されることなく、貧困と不遇と病苦と失意の果てに、35歳という若さでこの世を去ったジェラール・フィリップ演じるモディリアーニの物語は、切なく、そして哀しく、苛立ちさえ覚えないではいられないものだった。

しかし、何よりも私の心を惹きつけたのは、モディリアーニをささえ続けたアヌーク・エーメ演じるジャンヌ・エビュテルヌである。身重の彼女はモディリアーニの葬列のさなか、アパートから身を投げてモディリアーニの後を追ったのである。あまりにも壮絶で哀しい、そして悲しい二つの人生ではないか。(実際には、モディリアーニの死から二日後のことである。)

モディリアーニは最初彫刻を志したが、資金難と粉塵から健康を害し、画商のポール・ギヨームらのすすめで絵画に転向する。

美術展では、彼が彫刻家を志していた1913年ころからのカリアテッドのスケッチなどが数多くみられた。カリアテッドはギリシャ時代の神殿の柱になる部分の女性彫像であるがであるが、モディリアーニはこのカリアテッドにアフリカ彫刻(トーテムポールなど)の趣向を持ち込ませて描いた。

Modi_red_3 《赤毛の若い娘(ジャンヌ・エビュテルヌ)》

モジリアーニが描く首の長い肖像、それはアフリカ彫刻の影響でもある。彼はキュビズムの影響を受けながら、ピカソの『アヴィニョンの娘たち』の影響、セザンヌの肖像画(特に体の部分~腕などの不均衡さ)の影響を受けながら、彼独自の肖像画を確立しようとし続けた。

彼が目指したのは、二次元の平面のキャンヴァスを三次元のように立体的に見せることだったのだろう。それは彼が彫刻家を目指していたことからもうかがえる。つまり、彫刻的な絵画を目指したのである。しかし、彼の意図は不幸にも彼が生きている間に受け入れられることはなかった。

彼にとっては、無念の死だったろう。

大げさに聴こえるかもしれないが、私は、展覧会の一つ一つの絵に、モディリアーニの思い入れと無念の思いを嗅ぎとりながら、ジャンヌの献身という匂いをも嗅ぎとったような気がする。

ジャンヌのコーナーに差しかかる手前の壁に、ひときわ大きく引き伸ばされたジャンヌの写真を観て、私は思わず、「君に会いに来たよ」と心の中で呟いてしまった。

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2007年5月21日 (月)

デジタルアート 簡単な描き方

デジタルアートの簡単な描き方 1

パソコンがある程度こなせるようになって、絵心のある人なら、デジタルアートを描いてみたいと思うようになるだろう。でも、はじめは何から始めればいいのか迷ってしまう。

何でもそうなのであるが、何かを始めるには、ある程度の道具が必要である。ゴルフを始めるにはゴルフクラブがいるし、野球を始めるにはバットやグラブが必要なように、デジタルアートにも道具が必要である。

私の場合は、画像編集ソフトに 『Photoshop Elements 3』 を筆記具にWACOMのペンタブレット 『 intuos3 』を使用している。Windowsに付録のペイントでも描けないことはないが、マウスでは細かい部分が描けないことと、絵を重ねたり、合成することができないので、私は使っていない。

簡単デジタルアート入門編

私が最初に描いた平安朝の宮女(切り絵風)を例にとってみよう。もっとも、この絵を含めて2枚しか描いていないのであるが…。

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2006年11月12日 (日)

ダリ回顧展~生誕100年

Cimg0168aもう1週間前のことだが、上野の森美術館で開催されている、『ダリ回顧展』に出かけた。

ダリの絵には過去に何度となく触れているのだが、これだけの数を集めたものは、初めてであった。

ダリと言えば、ピカソ、デュシャンらと並んで20世紀最大の芸術家の一人に数えられるのだが、私としては、そのトップであると公言してはばからない。

以前、ウチのHPでも特集を組んだが、ダリは深層心理の表出、そして死の予感を一枚のカンヴァスの中に封じ込める。彼の絵にはキリコ、ピカソ、マグリット、ベラスケスら、そしてフロイトの影響がみてとれるが、そのイメージの発想と独創性は他に追従を許さないものがある。

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今回の回顧展は、『記憶の固執』や『茹でた隠元豆のある柔らかい構造~内乱の予感』、『聖アントニウスの誘惑』、『目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢』などの有名な作品はなく、大作でも『世界公会議』くらいなものしかないが、ダリの少年時代から最後の絵まで年代順に並べられており、写実、ダダからキュビズムを経てシュールレアリスムに至る過程が垣間見られ、ダリの絵に初めて触れる人、あるいは、ダリの変貌を理解するにはわかりやすいものになっている。

ただし、この回顧展に「私はダリでしょう?」なんて、つまらないただのダジャレ・コピーを付けて欲しくなかった。

それから、上の写真を撮ったときに、寄寓にも以前私と一緒に仕事をしていた人物が写りこんでいたとは知る由もなかった。

ダリ回顧展:平成18年9月23日から平成19年1月4日まで

ダリ回顧展HP:http://www.dali2006.jp/

上野の森美術館公式HP:http://www.ueno-mori.org/

Cimg0212wa (画像上は、上野の森美術館・ダリ回顧展の表の風景、中央はそのチケット、下はダリのヒゲをつかもうとする天然ボケ女性をDショット)

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