『倚天屠龍記(いてんとりゅうき)』(全5巻 徳間書店)を読む。
やはり、金庸は抜群に面白い。『倚天屠龍記』は前回に読んだ『天龍八部』と違ってヒーローが一人に絞られているからいい。やはりヒーローものは、何人ものヒーローが出てくるのは面白みに欠けるし、ヒーロー自体に思い入れを込めにくい。
『倚天屠龍記』は神鵰3部作の第3部にあたる。主人公は張無忌(ちょうむき)、前作『神鵰侠侶(しんちょうきょうりょ)』から約80~90年を経た元王朝末期から明王朝へと変わる1350~1360年ころが物語の中心舞台となる。
第1巻の冒頭から第2章まで、『神鵰侠侶』で最後に登場した郭靖(かくせい)の次女・郭襄(かくじょう)が楊過(ようか)の消息を追って旅する姿と同じく『神鵰侠侶』に登場した覚遠(かくえん)とその弟子・張三豊(ちょうさんぽう)が武当派の始祖となる前段までが描かれるが、第3章は第2章からかなり進んだ元王朝・至元2年(1335年)、武当派で太極拳の創始者と伝えられる張三豊の90歳の祝いの年であり、ここから「倚天屠龍」の本編がはじまる。
「倚天屠龍」とは、倚天剣(いてんけん)と屠龍刀(とりゅうとう)のことであり、倚天剣は屠龍刀と並ぶ切れ味抜群の剣で、鞘を払わなくても物が切れるという。また屠龍刀は持っているだけで武林至尊とされる刀である。「倚天屠龍」を手にしたものは天下に号令ができるといわれ、この2振りの宝刀剣をめぐって物語は進むのだが、刀剣よりも、屠龍刀を持っている謝遜(しゃそん)の居所をめぐって話が進むといった方が正しいかもしれない。
謝遜は「金毛獅王」の異名を持つ明教(めいきょう)四大護教法王のひとりであり、文武両道に優れた人物であったが、家族を惨殺されたことにより、復讐の殺人鬼と化していた。更に謝遜は、前明教教主・陽頂天(第33代教主)から次の教主にと遺言されていたが、その遺言は物語後半になって明かされる。主人公の張無忌にとって謝遜は義父にあたるが、義父といっても子弟関係上からきている義父なのである。
明教はペルシャのマニ教に由来し、当時、中華の六大正派(武当派、少林派、崑崙派、峨嵋派…始祖は郭襄、崋山派、崆峒派)から邪教=魔教とされていた。しかし、その教義は、国のため民のため義をなすという立派なのものであり、外国から入ってきた流派というだけで、異端教扱いされていたのである。
明教といっても、中には悪事を働く者もいる。それをとらえて六大正派は明教を魔教と呼んだ。しかし、六大正派にも悪事を働く輩は大なり小なりいたのである。いつの世も少数派は異端視されやすい。
よくニュース・キャスターやコメンテーターと呼ばれる輩が、ある職業・会社・団体のごく一部の者の犯罪をとらえて、全体が同じ穴のムジナ的なことをよく言うが、ニュース・キャスターやコメンテーターから犯罪者が出ると、自分たちのことをどう説明するのだろうか。「犯罪集団の一人の○○です」とでも自己紹介するのだろうか。
「他人には厳しく、自分には甘く」といったことが六大正派そのものを蝕んでいた。
張無忌は武当派の父・張翠山(ちょうすいざん)と明教の母・殷素素(いんそそ)との間にできた子供であり、謝遜に殺されそうになった両親も張無忌の誕生によって救われる。そして、張無忌は名づけ親である謝遜によって育てられるのである。それ故、謝遜と別れるまでは謝無忌(しゃむき)と名乗っていた。
張無忌は、正派・邪派の両派から恩人である謝遜の居所を教えるように迫られた両親が自害し、幼くして一人江湖をさすらううちに、医学や武術を極め、六大正派の強者どもが次々に立ち向かってもかなわないほどの武術家へと成長する。
そして、張無忌は謝遜が見つかったら彼を教主にすることを条件に、第34代明教教主となる。彼は明教と六大正派との和解に奔走し、張無忌の活躍により和解した両派は宋王朝を滅ぼした元王朝に立ち向かうのであった。
ちなみに、明教の配下の一人に後の明王朝を築いた朱元璋(しゅげんしょう)がいるが、史実の朱元璋はもちろん明教徒ではない。金庸は、死の間際まで功臣を殺し続けたといわれる朱元璋が嫌いなのか、朱元璋は張無忌への裏切りによって明王朝の創始者とならせるのである。
この物語では、張無忌の成長とともに、何が正で何が邪なのかが問われる。そして、その正と邪を統一する役割を担ったヒーローが張無忌なのである。しかし、そんな張無忌も女となるとだらしがない。こうした欠点は、ある種作者のご愛敬、あるいは完全主義の否定が、張無忌を完全無欠なヒーローに仕立てることを善しとしなかったかもしれない。
《主な登場人物》
● 張無忌・・・本作品の主人公。武当派・張翠山と明教・殷素素の息子。ひょんなことから明教教主に祭り上げられる。
● 趙敏(ちょうびん)・・・元朝に仕える汝陽王の娘で紹敏郡主。本名はミンミンテムール。張無忌に惚れてつきまとう。
● 周芷若(しゅうしじゃく)・・・船頭の娘。峨嵋派の掌門・滅絶師太(めつぜつしたい)の弟子、後に峨嵋派掌門となる。張無忌を愛し裏切るのだが…。
● 殷離(いんり)・・・張無忌の従妹で、殷素素の父で明教四大護教法王の一人「白眉鷹王(はくびようおう)」と呼ばれる殷天正(いんてんせい)の孫。またの名を蛛児(しゅじ)。張無忌を憎しみながらも激しく慕っている。
● 小昭(しょうしょう)・・・張無忌の侍女としてつきまとう。明教四大護教法王の一人「紫衫龍王(しさんりゅうおう)」ティギス(黛綺絲)の娘。後、ペルシャ総教の教主となる。
● 謝遜・・・「金毛獅王(きんもうしおう)」の異名を持つ明教四大護教法王にして、張無忌の義父。一家を師父・成崑によって殺されている。
● 成崑(せいこん)・・・謝遜の師父にして仇敵。明教を心の底から憎んでおり、その四大護教法王となった弟子に復讐をする。混元霹靂手(こんげんへきれきしゅ)の異名を持つ。
● 張三豊・・・武当派の開祖にして太極拳の創始者。
● 武当七侠・・・張三豊の7人の弟子。宋遠橋、兪蓮舟、兪岱巖、張松渓、張翠山、殷梨亭、莫声谷。
● 明教四大護教法王・・・「紫衫龍王」ティギス(黛綺絲)、「白眉鷹王」殷天正、「金毛獅王」謝遜、「青翼蝠王」韋一笑の4人。
● 明教逍遥二使・・・明教の光明左使・楊逍(ようしょう)と光明右使・范遥(はんよう)の2人。楊逍は後、第35代目明教教主となる。
● 玄冥二老・・・鹿杖客と鶴筆翁の2人。玄冥神掌という強力で陰険な技を使う。幼少期の張無忌はこの掌の後遺症で苦しんだ。
● 楊不悔・・・楊逍と峨嵋派掌門・滅絶師太の愛弟子・紀暁芙の娘。
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