映画監督

2009年10月26日 (月)

A・タルコフスキー 『ノスタルジア』

Photo

『ノスタルジア(NOSTALGHIA)』は前作『ストーカー』を経て、タルコフスキーがソ連から正式に亡命し、イタリアにおいて製作した作品である。冒頭のモノトーンのシーンからすでに重たい郷愁が漂う。その後タルコフスキーが帰ろうにも帰れなかったロシアの地に想いは翔る。

ワンシーン・ワンシーンが計算された構図と詩情と絵画性に溢れる。それにしても、タルコフスキーの作品には『水』が重要な要素を占める。

タルコフスキーは、『水』について最も美しいイメージだと語る。そして、それは日本で思われているようにと・・・。この『水』の概念は、おそらく東洋思想の『老子』が原点となっている。『上善は水の如し』である。

しかし、それだけではないだろう。『水』は鏡に繋がる。人を景色をそこに映し出す。そして、浄化作用。その意味において『ノスタルジア』は水の美しさを描いた作品であるとも言える。

タルコフスキーは、郷愁(ノスタルジア)は死に至る病だと語る。確かに、『郷愁』は人が幸福のときには感じないものだろう。絶望の淵にあるとき、何かにすがりたいときに救いの場を求める。その場とは、人が生れ出でた故郷なのだろう。

それは、『惑星ソラリス』からのテーマでもあった。かつて安部公房は、郷愁はセンチメンタリズムであり人間には害悪だというようなことを語っていた。おそらく、タルコフスキーの語る郷愁と同意義であるにちがいない。そして、タルコフスキー自体、この頃、自分の死を予感していたのかもしれない。

そして、アンドレイの分身としての『ドメニコ』。アンドレイは、最初会ったときからドメニコに興味を示す。そこには芸術家としての共感以外に、内面の苦悩、つまり孤独を共有しているという繋がりがある。街角をさすらうアンドレイが、ふとドアを開けようとしたとき、窓ガラスに映ったのは自分の顔ではなくドメニコの顔だった。。あわててドアを閉めるアンドレイ。

そこでアンドレイは、ドメニコが自分の分身だと気づくのである。いや、最初からドメニコをそうして見ていたのである。このときの窓ガラスは、自分の内面を映し出す『鏡』の役割を担っている。ドメニコが呟く、『1滴プラス1滴は2滴ではなく、大きな1滴となる』という観念は、ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公が呟く、

「・・・それにしても、ニニ(ににん)が四というのは鼻持ちならない代物である。ニニが四などというものは、ぼくにいわせれば破廉恥以外の何物でもない。ニニが四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行手に立ちふさがって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。ニニが四がすばらしいものだということは、ぼくに異論はない。しかし讃めるついでに言っておけば、ニニが五だって、ときには、なかなか愛すべきものではなかろうか。」

と同じ観念でもあろう。世の中、すべて数字(公式)や科学で表すことはできないのである。特に芸術家の精神はそうに違いない。

『ノスタルジア』において『水』の次に大事な要素が『火』である。すべてを焼き尽くす火。過去、そして故郷さえも焼き尽くしてしまう火。それは『鏡』でも使われたが、『ノスタルジア』では、破壊としての火というよりも世界を救うための火として使われている。

ドメニコが世界の救済を呼びかけ焼身自殺を図る火、温泉広場の端から端まで蝋燭の炎を消さずに渡れたならば世界は救われるという、蝋燭の火。この作品での『火』は贖罪としてのイメージなのである。

そうしたイメージの連鎖で『ノスタルジア』は構成されている。言葉では語れない、視覚で訴えるイメージ。タルコフスキーは映像本来のもつ特性を最大限に活用し、彼の天性の映像感覚で詩情豊かに創造したのが本作品である。

この作品では、アラン・レネ監督と画家フリードリッヒの影響を見逃すわけにはいかないだろう。冒頭故郷の風景での人の配置と構図、ドメニコが演説するのを階段で眺める人々の配置と構図は、明らかにアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』の影響が窺われ、アンドレイ、エウジェニアが宿舎の窓から外を眺める構図は画家フリードリッヒの『窓辺の女性』を、そしてエンディングは、『エルデナ修道院跡』そのものである。(夢の美術館、特集ダリ参照)

また、『水』の結晶体である『雪』が降りそそぐエンディングは、雪国ロシアにたいする郷愁の究極的なイメージにちがいない。

ちなみに、本作の脚本家トニーノ・グェツラは、アントニオーニの『情事』、『太陽はひとりぼっち』、デ・シーカの『ひまわり』、フェリーニの『アマルコルド』、タビアーニ兄弟の『サン・ロレンツォ』の脚本も担当している。

私は、この作品が早くデジタル・リマスターされ、ブルーレイ化されるのを望んでやまない。

< アクスコ倶楽部・『魂の映像詩人タルコフスキー』より http://www.fiberbit.net/user/m31fb/tarkovsky_nostalghia.htm >

続きを読む "A・タルコフスキー 『ノスタルジア』"

|

2009年8月18日 (火)

A・タルコフスキー 『惑星ソラリス』

Solarisimage

映画の中には、小説をもとに製作されたものが多々あるが、私が知る限り原作を超えたのは、『惑星ソラリス』、『2001年・宇宙の旅』、そして『ブレード・ランナー』だけである。

いずれもSF映画であり、SF小説では語ることのできないイメージを映画はあたえてくれるのである。もっとも、この3作は原作に忠実に描いていないし、原作者とは違うそれぞれの監督の世界観や哲学が反映されている。

『ブレード・ランナー』は、全く別物といっていいほど原作の陰は薄い。また、『惑星ソラリス』、『2001年・宇宙の旅』は、原作を読んでも映画ほど印象に残らなかった。

そして、両者の原作者は、映画に批判的である。さもあろう、多くの映画は原作を超えられないのに、自作を超えられてしまったのであるから。

私は学生のころ、池袋の『文芸座』、中野の『名画座』、千石の『三百人劇場』、京橋の『国立フィルムセンター』、新宿の『アート・シアター』、神田の『岩波ホール』などで、名画とよばれる名画を片っぱしから観ていた。

そんな中で、『惑星ソラリス』とであったのである。日ごろから神田の古本屋街を歩いて気になっていたのが、あまり聞いたことのないような映画がかかってるへ岩波ホールであった。その岩波ホールで『惑星ソラリス』が単館上映されていたのである。

私は日比谷の『スカラ座』だったか、『惑星ソラリス』が上映されていたのに、見逃してしまっていたことから、直ぐに入ってしまった。岩波ホールは、岩波書店のビルの中にあり、完全入替制でゆったりと映画を鑑賞できるところであった。

作品の冒頭、バッハのコーラル・プレリュードが流れ、静かな池の中で水生植物が揺らぐ、そのシーンを観ただけで私は画面に釘づけになってしまった。そこに、タルコフスキーの死生観とゆっくりと流れる時間感覚を観る思いがしたのである。そして、このシーンは若くして死去し、黒澤明を尊敬していたタルコフスキーへのオマージュとして、のちに黒澤明が『夢』の中で使用したのだった。

この作品は、一度観ただけでは≪難解≫ゆえに、観るものにいかようにも受けとめられる作品となっている。

科学では測りきれない、観測不能のソラリスが生成する未知なるものの領域に触れた人間の精神の葛藤と苦悩が描かれる。その領域とは、「愛」、「道徳的良心」にもつながる神の領域であった。神という禁忌の領域に触れたからこそ、科学者でありながら彼らは精神を侵された。そして、その救済は、何によってなしうるのか。

それは、作品中にも出てくるが、神の救済と人間の良心について苦悩したドストエフスキイの作品の主題でもあった。

タルコフスキーは映像によって、SF的題材をもとに人間と神とのかかわり、あるいは罪の意識・贖罪といったものを異形の「愛」というかたちで描いて、我々に問題提起したのではなかろうか。

終盤、スナウトの誕生祝をするため図書館にみんなが集まったとき、ハリーは「お客さんはあなた方自身であり、あなた方の良心です」、「私は人間になります。私はあなた方に劣ってはいません」と訴える。そしてクリスは、そんなハリーに近づき、彼女の足元に跪く。『罪と罰』のラスコーリニコフが、娼婦であるソーニャの足元に跪き口づけしたように。おそらく両者は、ハリーにソーニャに神を見たにちがいない。

しかしながら、タルコフスキーはこの作品でそれだけを描いたのではないだろう。

当時、ソ連はスターリンから引き継ぐ社会主義政権下にあり、自由な思想は禁じられ、製作したものは全て検閲にあっていた。詩人である彼の父は、スターリン政権下で抑圧され、詩集の出版さえままならなかった。彼は、ソラリスを社会主義政権そのものとして描いたのではないだろうか。

政治批判も原作があれば覆い隠すことが可能であるとみたタルコフスキーは、レムの『ソラリスの陽のもとに』を選んだ。ソラリスが生み出す幻想は、社会主義政権が生み出す幻想だったのではないか。決して人間を前に向かせない、過去へ過去へと逆行させる幻想。ここに、『惑星ソラリス』の二重構造があると私は考える。

タルコフスキーは、社会主義批判をソラリスに封じ込めた。彼には、検閲官がそこまでわからないだろうというかすかな目論見があったにちがいない。だが、その目論見も簡単にはいかなかった。『惑星ソラリス』が、上映という陽の目をみるまで相当の月日がかかったのだから。

そして、検閲の問題は、次作の『鏡』のモチーフの一つへと連鎖するのである。

< アクスコ倶楽部・『魂の映像詩人タルコフスキー』より http://www.fiberbit.net/user/m31fb/tarkovsky_solaris.htm >

続きを読む "A・タルコフスキー 『惑星ソラリス』"

|

2008年7月30日 (水)

アンドレイ・タルコフスキー 『鏡』

(ЗЕРКАЛО)

51rzn9r0g8l__ss500_aBS11、毎週土曜日の午後8時からの枠で、「特選映画劇場」が放送されている。毎月の第1週を除いて、過去に岩波ホールで上映された作品がここで観られる。

先週放映されたのは、私が最も敬愛するアンドレイ・タルコフスキー監督の『鏡』であった。ハイヴィジョン放送枠なので、ハイヴィジョン画質で観られるのかと期待もあったのだが、市販のDVD画質と同等であった。

先々週に放送された『惑星ソラリス』は、DVD画質よりも落ちていたので、一縷の望みでしかなかったのだが、現在、タルコフスキーの作品をハイヴィジョン画質で観られるソフトはないようだ。非常に残念である。まさに映像詩人の名がふさわしいタルコフスキーの作品であるからこそ、ハイヴィジョン画質で観たいものである。

以下は、私のHPで特集を組んでいる「魂の映像詩人~タルコフスキー」からの引用である。

「僕のみる夢は、いつも同じだ。僕が40数年前に生れた祖父の家、それが必ず再現される。懐かしい場所だ。そして白いテーブル・クロスの食卓がある。家に入ろうとして入れない・・・、そんな夢を何度か見た。薄汚れた丸太の壁やよく閉まらない扉などを見て、夢だなと思うことがある。そういう時には妙に物悲しく、目覚めたくないと思ったりする。時に何事か起きて、あの家も、周囲の林も夢に見なくなる。夢に現れないと、僕は淋しくなる。夢を待ち焦がれるようになる。夢の中で僕は子供にかえり、幸せを感じるのだ。まだ若いからだろうか?」

K62_2

『鏡』は、タルコフスキーの作品のなかで最も難解な作品かもしれない。なぜなら、この作品に貫かれているのは監督の内省的な自伝的要素の強い作品になっているからだ。自分の内面を見つめることさえ難しいのに、人の内面に入るのは困難なことである。物語は父と別れた母への思いと、同じように妻と子供たちと別れてしまった『私』の回想と夢で綴られる。

母が印刷工場で誤植かもしれないと大騒ぎした日に、同僚のエリザヴェータから身勝手だと責められる。そして、主人公も妻から「あなたは自信過剰よ。自分が存在するだけで、家族は幸せになると思っている」と母に似たような非難をされる。自己の存在があっての世界。自己の存在があっての他者。そうした人と人の繋がりの感情の襞が、この作品では鏡を通して語られる。

作品の冒頭近く、風に揺らぐ草原の中を通りすがりの医者が母に語りかける。
「・・・ごらんなさい。自然も素晴らしい。草も木も感じたり、認識したり、理解するのです。・・・われわれは走り回り、くだらんおしゃべりをする。自分の中にある自然を信じないからですよ世俗のことばかり忙しくて・・・」と。

内なる自然、それは『神』と同義語ではなかろうか。人間としての良心。善悪や恥に対する認識。『惑星ソラリス』でもそれらは同じように語られる。そして、スナウトに「人間に必要なのは鏡だ」と語らせている。自己を見つめるための『鏡』、自己の内面を時間と空間を飛び越えて映し出す『鏡
』。鏡に映った自己は虚像ではあっても、その内面の多くを物語ってくれる。そして、それは実像なのである。

スターリン政権下、誤植は命とりだったのである。そのため奔走した母
。それを攻める同僚。観ているものには理不尽さを感じないではいられない。それは、時代のゆがみの現れ、タルコフスキーのソ連政権に対する不信感の現われだったにちがいない。

ともあれ、この作品は言葉で表し難い。それは冒頭述べたとおりである。しかし、タルコフスキー特有の映像。この映像を見ているだけで至福のひと時を感じてしまう。また、感情の奥襞を言葉のやり取りでさらけ出していく手法はベルイマンを、夢のシーン、特に母がベッドから浮き上がるシーンや家の壁が崩れ落ちるシーンにはブニュエルの影響が認められる。

K15

そして、作品の随所に現れる『水』と『火』のイメージは、次作 『ストーカー』を経て『ノスタルジア』で頂点に達する。

≪父の詩≫
「私は予感を信じない 前兆を認めない 中傷も毒も恐れない この世に死は存在しないのだ すべては不死だ すべては不滅で17歳でも70歳でも死を恐れる必要はない ただ現実と光あるのみ この世に闇もなく、死もない 我々はみな海辺に出る 不滅の海の広がり 我々は力をあわせて綱を引く 家というものも永遠だ 私は好きなときに呼び戻し その時代に生き 家を建てる・・・それゆえに今 我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる もし私が手を挙げれば 未来もここに現れる 光も永久に残るだろう 過ぎ去った日々を私は肩に積み重ねて 深い時の森を抜けてきた 私は自らこの世紀を選ぶ・・・」

「魂の映像詩人 タルコフスキー」 http://www.fiberbit.net/user/m31fb/tarkovskyhyoudai.htm

続きを読む "アンドレイ・タルコフスキー 『鏡』"

|

2007年8月24日 (金)

アントニオーニ・フィルモグラフィー

ミケランジェロ・アントニオーニ(1912-2007 イタリア)は、世界の巨匠の中でも不遇な扱いをされた一人ではないだろうか。彼に対する作品の評価は、極端にいいものと酷評されるものが入り混じっていいる。

彼は一貫して、「愛の不毛」と「現代人の孤独」をテーマに撮り続けた。どれもが単純に見てわかる作品であるとは言い難いし、最後に答えを出す、あるいはハッピーエンドに終わるという作品ではない。ある意味、自己満足的な作品に受けとられる危険性も秘めてなくはないが、彼の一連の作品を見れば、一つの作家のポリシーと方向性が見えてくるのである。

そんな理由もあってか、日本で公開された彼の作品は多くないし、どちらかと言えば寡作な作家であることには違いないだろう。

そして、アントニオーニは私を映画の魅力に引きずり込ませた監督の一人でもある。

* 印はビデオ・DVDで所有

 1950年『愛と殺意』*
 1956年『女ともだち』
*
 1957年『さすらい』
*
 1960年『情事』
* 

Cimg9155w

(『情事』のワン・シーン)

 1961年『夜』 *
 1962年『太陽はひとりぼっち』
*

Cimg9147w (『太陽はひとりぼっち』のワン・シーン)

 1964年『赤い砂漠』*
 1966年『欲望』
*

Cimg9161w

(『欲望』のワン・シーン)

1970年『砂丘』*Cimg9144w

  (『砂丘』のワン・シーン)

 1974年『さすらいの二人』*
 1982年『ある女の存在証明』
*
 1995年『愛のめぐりあい』
*
 2004年「エロスの誘惑」(『愛の神、エロス』) オムニバス
*

(日本で公開またはTV放送された作品のみ記載) 

|

2007年8月11日 (土)

ベルイマン・フィモグラフィー

イングマール・ベルイマン(1918-2007 スウェーデン)は映画のみならず演劇、オペラ等にも携わり、その多才さは他の監督を凌駕するものがある。ここでは、ベルイマンが監督し、日本で公開された映画、及び、テレビ用に作られ日本でも放送された作品を書き記した。(ただし、私が知っている限りにおいてであり、他にもあるかもしれない)         * 印はビデオ・DVDで所有

 1946年 『危機』*
 1946年 『われらの恋に雨が降る』 
 1947年 『インド行きの船』
*
 1948年 『闇の中の音楽』

 1948年 『愛欲の港』*                    
 1949年 『牢獄』
 1949年 『渇望』
*

 1950年 『歓喜に向って』* 
 1951年 『夏の遊び』

Cimg8929w

(『夏の夜は三たび微笑む』のワン・シーン) 

 1952年 『不良少女モニカ』* 
 1952年 『女たちの期待』 
 1953年 『道化師の夜』 
 1954年 『愛のレッスン』
* 
 1955年 『夏の夜は三たび微笑む』
* 
 1957年 『第七の封印』
*

 Cimg2400w
  (『第七の封印』のワン・シーン)

 1957年 『野いちご』*
 1958年 『魔術師』
*
 1958年 『女はそれを待っている』 
 1960年 『処女の泉』
*
 1960年 『悪魔の眼』
*

Cimg8931w  (『野いちご』のワン・シーン)

  

続きを読む "ベルイマン・フィモグラフィー"

|

2007年7月31日 (火)

ベルイマン、そしてアントニオーニ没す

30日、残された最後の巨匠、イングマール・ベルイマンとミケランジェロ・アントニオ-二がこの世を去った。

私が映画に興味を示したのは、この二大巨匠がいたからに他ならない。それまで、西部劇や時代劇が映画だと思っていた私に、こんな凄い映画があるのだと知らしめてくれたのが二人なのである。

もう30年近くも前のことなので、どちらの作品を先に観たのかは、今となっては定かではない。

Cimg2397s(右が『ペルソナ』演出中のベルイマン、中央はリヴ・ウルマン、左はビビ・アンデション)

 まずは、ベルイマンの『狼の時刻(とき)』である。『狼の時刻』とは芸術家の苦悩する時間、あるいはイメージが活発になる時刻、それを狼の時刻と呼ぶらしい。日本でいう「丑みつ時」(今の午前2時から午前3時ころ)を意味する。

 つまり、真夜中なのだが、この時間帯は眠っていれば夢を見るであろうし、起きていれば深夜の静寂に自分の存在が溶け込むような感覚を催す神秘さに満ちた時間帯でもある。
 
Cimg2393s
(『狼の時刻のワン・シーン)

 主人公が見る夢は、恐ろしい内容のものであった。私の記憶は曖昧だが、確か母(あるいは女性)を殺し海に捨てる夢である。

 それほどまでに、芸術家は苦悩の果てに作品を産みださなければならない。あるいはそれほどの苦悩を要するというのであろうか。

 それは、映画監督としてのベルイマンの苦悩を意味したのであろう。

続きを読む "ベルイマン、そしてアントニオーニ没す"

|

2007年7月11日 (水)

キム・ギドクという監督

Cimg2199a中国や韓国ものが続くが、何も韓流ブームの名残りで書くわけではないし、私が韓国や中国が好きでこのブログを書いているわけでもない。

たまたま続いているだけで、中国に行きたいとも、韓国に行きたいとも思っていない。観光するなら、どちらかと言えば、フランスやイタリアの方に興味がある。

ところで、韓国にキム・ギドク(金基徳)という男と女の愛を一種独特なタッチで描く監督がいる。彼の作品は、この半年の間に、『春夏秋冬そして春』(’03)、『サマリア』(’04)、『うつせみ』(’04)、『悪い男』(’01)と4作品を観てきた。いずれもハイ・ヴィジョン放送である。

4作品に共通して言えることは、暴力が潜む男と女の異形の愛である。『春夏秋冬そして春』では、僧侶と養生に訪れた同い年の女を強姦まがいに犯しながらも惹かれあう男と女の愛、『サマリア』では、援助交際で身を売る娘と刑事の父親との父子の愛、『うつせみ』では、影のように生きる男と夫の暴力に耐えかねた人妻との愛、そして、『悪い男』では聾唖者のやくざとその男に娼婦に堕とされた女子大生との愛が描かれる。

もっとも、『春夏秋冬そして春』では四季の織りなす機微と風情を背景に人間の業に焦点をあてているようだが、そのエピソードの一つとして、僧侶と養生に訪れた女との愛欲が描かれる。それは、この作品の大きなモチーフとなるものである。

これら作品の一つ一つのあらすじを書いたところで、意味をなさないであろうが、たとえば『うつせみ』では、バイクでチラシを各戸に配布しながら、留守宅を見定めては、住居内に侵入し、冷蔵庫にあるもので食事を作り、風呂に入り、洗濯し、オーディオで音楽を鑑賞したりして日々を送る青年・テソク(ジェヒ)が主人公の一人である。

彼は器用でもあり、その家に壊れているものがあれば修理する。オーディオが壊れて音が出なければ修理し音楽を聴く、時計や体重計が壊れたいれば動くように修理する。そして、忍び込んだ家では必ず記念撮影でもするかのように、気に入った場所・オブジェの前でデジカメを自分に向けて撮影するのだった。

続きを読む "キム・ギドクという監督"

|

2006年11月23日 (木)

名匠ヴィスコンティ・生誕100年

Cimg0424a_1どうやら、ダリの生誕100年(実際は102年)というのは不正確だったが、今、BS-NHKで特集を組んでいる『名匠ヴィスコンティ生誕100年』というのは、彼が2006年11月2日生まれであるから正確である。

この機にBS-NHKでは、『夏の嵐』、『白夜』、『ルートヴィヒ』、『若者のすべて』、『ベニスに死す』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、『熊座の淡き星影』の7本を放映する。

ヴィスコンティは日本で言えば黒澤明のように完全主義者であり、その映像の重厚さ、絢爛豪華さは、他の監督たちを圧倒する。CGやVFX(特殊効果)ばかりの映画しか観ていない若者たちにはお勧めの作品ばかりが連なっている。

このシリーズに、『熊座の淡き星影』が含まれているのが、私にとって嬉しい限りである。なぜならこの1本だけが、私のビデオ・ライブラリーにはなく、未見であるからである。

できれば、この機にニュープリント版の『山猫』、そして、『異邦人』、『地獄に落ちた勇者ども』、『家族の肖像』、『イノセント』が観れると、ほぼ完全なヴィスコンティ特集になっていたと思われるだけに、非常に惜しい気がする。そう思っているのは私だけではないだろう。

もっとも、これらの作品がハイヴィジョンで観られるのなら、この上ないのだが、過去にハイヴィジョン放映されたのは、『ルートヴィヒ』、『ベニスに死す』、『地獄に落ちた勇者ども』の3本だけである。

そして、この『名匠ヴィスコンティ生誕100年』を、もう一度、NHK-highVisionで再放映してくれるとことを望む。

(画像上は、映画『トゥルーへの手紙』から、同映画監督と親交のあったダーク・ボガードのエピソードの映像の中に約2、3秒だけ映っていたヴィスコンティをDショット)

|